徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

童形なれば なにとしたるも幽玄なり by 世阿弥

2014-08-24 18:22:53 | 音楽芸能
 朝から「藤間勢珠・中村寿誠おさらい会」を火の君文化センターへ見に行った。花童は今日はお囃子としての出演だけ。まず年配女性方の日本舞踊から始まる。演目には花童の演目としておなじみの曲も含まれていて、どうしても比較してしまう。見ながら、こんなことを考えていた。
 能の大成者・世阿弥が残した伝書「風姿花伝」の第一章「年来稽古条々」の中でこんなことを言っている。これは年齢に応じた稽古の仕方について述べたものだが、十二・三歳頃について

「この年のころよりは、はや漸々声も調子にかかり、能も心づくころなれば、次第次第に物数も教ふべし。まづ童形なれば、なにとしたるも幽玄なり。声も立つころなり。二つの便りあれば、悪きことは隠れ、よきことはいよいよ花めけり。」

 つまり、「子どもはその存在自体が幽玄である」と言っているようにも受けとれるのだ。「幽玄」というのは先日もこのブログで触れたが、世阿弥の美的概念を表す最も重要なキーワードである。世阿弥自身がその年代の頃、将軍や貴族たちからもてはやされた実体験からの言葉なのかもしれない。
 けっして年配女性の踊りが美しくないというわけではないが、やはり子どもたちは技術的なことなどは超越した何かを持っていると強く感じた。