熊本地震以来、わが家周辺の古い石垣が次々と姿を消していく。次の地震に備えてコンクリートで固められるのはやむを得ないが石垣ファンとしては残念な気もする。そんな中で辛うじて残っている古い石垣が何ヶ所かある。
その一つが中坂に沿った石垣。中坂は京町台から坪井方面へ人馬を通すため台地の斜面を切り通した道。豊後街道の一部として参勤交代の御行列も通った。石垣の積み方は熊本城と同じ打込接ぎ(うちこみはぎ)に近いので、加藤清正による築城の頃、積まれたものと思われる。この石垣の上には本通り沿いには町屋が軒を連ね、その東側に武家屋敷、そして中坂に沿って専念寺や金剛寺が建てられていた。

中坂の石垣
もう一つは新坂に沿った石垣。新坂は明治24年に九州鉄道が熊本まで開通したとき、上熊本駅から熊本市内へ馬車を通すために京町台の斜面を開削して造られた道。しかし、石積みを見ると、古い時代の「野面積み(のづらづみ)」に近い。昭和40年代にこの上にマンションが建てられたが、それまでは群馬の製糸業で財を成したという細谷氏の邸と庭園があった。江戸前期の京町絵図には武家・松野氏邸と書かれているので、この石積み自体は相当古くからあったのかもしれない。

新坂の石垣
その一つが中坂に沿った石垣。中坂は京町台から坪井方面へ人馬を通すため台地の斜面を切り通した道。豊後街道の一部として参勤交代の御行列も通った。石垣の積み方は熊本城と同じ打込接ぎ(うちこみはぎ)に近いので、加藤清正による築城の頃、積まれたものと思われる。この石垣の上には本通り沿いには町屋が軒を連ね、その東側に武家屋敷、そして中坂に沿って専念寺や金剛寺が建てられていた。

中坂の石垣
もう一つは新坂に沿った石垣。新坂は明治24年に九州鉄道が熊本まで開通したとき、上熊本駅から熊本市内へ馬車を通すために京町台の斜面を開削して造られた道。しかし、石積みを見ると、古い時代の「野面積み(のづらづみ)」に近い。昭和40年代にこの上にマンションが建てられたが、それまでは群馬の製糸業で財を成したという細谷氏の邸と庭園があった。江戸前期の京町絵図には武家・松野氏邸と書かれているので、この石積み自体は相当古くからあったのかもしれない。

新坂の石垣