カメラにうつらなかった真実 3人の写真家が見た日系人収容所/エリザベス・パードリッチ・文 ローレン・タマキ・絵 松波佐知子・訳/徳間書店/2022年
1941年12月、日本軍が真珠湾を攻撃した三か月後の1942年2月9日、「大統領令9066号」が発令され、西海岸に住む12万人以上の日系人が、「集合センター」に移送されることになりました。「移送」されるということは収容されること。収容所から西海岸へ戻ることを許されたのは1945年。
この間の収容所のようすを、3人の写真家が残した写真とイラストでたどります。
大統領令がだされた当初から、収容所へ収容されるようすから、そこでの生活。写真家の一人ドロシア・ラングは、強制収容所が人道的に正しいことを証明する写真を残すために撮影を依頼されましたが、撮影を引き受けることで、いかに不正で非人道的な政策を実行しているかを写真で記録しようとしていました。
もうひとりの写真家アンセル・アダムスは、収容所を許容する立場から、暮らしが過酷だとわかるものは写しませんでした。また、忠誠心を示した二世だけを撮ろとしました。
ロスアンゼルスで写真店を営んでいた宮武東洋は、一家でマンザナー収容所に送られました。「ここで起きていることを、すべて記録しなければ。こんなことは、二度とあってはならないからだ」と、危険を犯して、写真機を持ち込み、用心深く行動し、写真を撮りはじめます。
餅つきや子どもたちの遊ぶ様子、孫を肩車するおじいさん、結婚式などの写真家からは 収容所での過酷な暮らしはつたわってきません。映らないところに、有刺鉄線がはられ、兵士が見張っています。映っているのは、ごく一部。映らないこともあります。
「強制収容所に向かうバスを待つモチダ一家」という説明の写真には、家族九人が映っていますが、これから待ち受けているであろう生活への思いは、うかがい知ることはできません。
一方、「砂嵐のなかのマンザナー収容所」の平屋がならぶ荒涼とした風景には、生活の匂いはまったく感じることができません。
明確な理由もなく、相当のバッシングがあったであろうアメリカ国内の空気感がつたわってこないのは、写真家に焦点をあてたからでしょうか。
ただ、いったん、戦争がおこれば、なにがあっても不思議はないということを思い知らされました。