昨日は二俣川から鎌倉駅まで歩きました。
緑園都市から岡津に入り、瀬谷・柏尾道路に入り、
不動坂を越えて国道一号線に合流し、
そのまま戸塚方面に向かい、柏尾川に並行する道に入り、
東海道線に並行する県道を大船駅方面に向かう。
笠間十字路に出ると左に曲がり、鎌倉女子大の先を右折し、
そのままずっと歩き、横須賀線を越えた先を左に曲がり、
しばらく歩くと左に北鎌倉駅が見える。
その後もまっすぐ進むと鶴岡八幡宮に至る。
ここまでで出発から約3時間15分が経過。
そのあと小町通りを歩きながら鎌倉駅まで歩き、
この時点で出発から約3時間30分が過ぎていた。
そのあと長谷の方に向かい、30分ほど歩くと長谷寺に至る。
長谷寺を見学してから、高徳院に向かい5分ほどで着く。
有名な大仏を見学し、また鎌倉駅に戻る。
途中聴いたのは1941年生まれのアルバートの交響曲。
ニューヨークで生まれた彼の略歴については、
声楽・合唱曲編で簡単に触れたので省略する。
交響曲第1番「リヴァーラン(川走)」は1983年に作曲された。
ロストロポーヴィチとナショナル交響楽団などに献呈されており、
1983年ピューリッツァー賞を受賞した作品である。
ジェームズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」に影響を受け、
その冒頭に出てくる「RiverRun」からタイトルを採っている。
ジェームズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」を訳した
柳瀬尚紀さんの訳を用いてここでは「川走(せんそう)」としておく。
ジョイスの作品には、色々な言葉の仕掛けがあり、
原語でなければ本当の意味では分からないところがあるだろうが、
その奥深い文学の世界と同じくこの曲の意図するものは、
深いものがあるのかもしれないが、その辺りはわからない。
第一楽章「雨の音楽」は、川の源を知らせるのを意味するようで、
導入部の鋭くアクセントのある和音が示される。
悲劇的で、重苦しい音楽のあと、一旦静かになった曲は、
ピアノが加わり、川の水源を示すかのように連打する。
音楽はやがて躍動感を持ち、動き始めていくが、
どこか音楽はストラヴィンスキー風であったり、
バルトーク的であったりするところがある。
ピアノが重要な役割を果たしているようで、
オスティナート風に一定の音型を奏していき、
金管楽器や弦楽器などが加わり、うねりのある音楽となる。
最後は冒頭の和音が示される中で終わる。
第二楽章「お葉容(はよう)のおしゃべり」は、
クラリネット・ソロから始まり弦楽器へと移り、
フルート、ピアノ、ハープが幻想的な世界を描いていく。
ここでもピアノは重要な役割を演ずる。
第三楽章「河の水のそばで」は、ピアノが伴奏的な音を奏し、
金管楽器が荒々しい音楽を演奏し、室内楽的な部分も見せ、
リズミックな動きと、叙情的な流れる旋律が印象的である。
その一方で、はしゃいだような軽快な音楽もあり、
いろんな音楽の要素が混在した楽章である。
第四楽章「河の終わり」は、ホルンの吹奏から始まり、
第一楽章の中の旋律などそれまでの楽章の旋律が、
再現されていくようで、最初に戻るような感じを抱かせる。
終わりは静かに、そしてまだ謎を秘めたまま終わる感じだ。
ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」に影響されたのもわかる。
しかし、秋の夜長にと思って読んでいるジョイスの
「フィネガンズ・ウェイク」は難解な作品である。
緑園都市から岡津に入り、瀬谷・柏尾道路に入り、
不動坂を越えて国道一号線に合流し、
そのまま戸塚方面に向かい、柏尾川に並行する道に入り、
東海道線に並行する県道を大船駅方面に向かう。
笠間十字路に出ると左に曲がり、鎌倉女子大の先を右折し、
そのままずっと歩き、横須賀線を越えた先を左に曲がり、
しばらく歩くと左に北鎌倉駅が見える。
その後もまっすぐ進むと鶴岡八幡宮に至る。
ここまでで出発から約3時間15分が経過。
そのあと小町通りを歩きながら鎌倉駅まで歩き、
この時点で出発から約3時間30分が過ぎていた。
そのあと長谷の方に向かい、30分ほど歩くと長谷寺に至る。
長谷寺を見学してから、高徳院に向かい5分ほどで着く。
有名な大仏を見学し、また鎌倉駅に戻る。
途中聴いたのは1941年生まれのアルバートの交響曲。
ニューヨークで生まれた彼の略歴については、
声楽・合唱曲編で簡単に触れたので省略する。
交響曲第1番「リヴァーラン(川走)」は1983年に作曲された。
ロストロポーヴィチとナショナル交響楽団などに献呈されており、
1983年ピューリッツァー賞を受賞した作品である。
ジェームズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」に影響を受け、
その冒頭に出てくる「RiverRun」からタイトルを採っている。
ジェームズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」を訳した
柳瀬尚紀さんの訳を用いてここでは「川走(せんそう)」としておく。
ジョイスの作品には、色々な言葉の仕掛けがあり、
原語でなければ本当の意味では分からないところがあるだろうが、
その奥深い文学の世界と同じくこの曲の意図するものは、
深いものがあるのかもしれないが、その辺りはわからない。
第一楽章「雨の音楽」は、川の源を知らせるのを意味するようで、
導入部の鋭くアクセントのある和音が示される。
悲劇的で、重苦しい音楽のあと、一旦静かになった曲は、
ピアノが加わり、川の水源を示すかのように連打する。
音楽はやがて躍動感を持ち、動き始めていくが、
どこか音楽はストラヴィンスキー風であったり、
バルトーク的であったりするところがある。
ピアノが重要な役割を果たしているようで、
オスティナート風に一定の音型を奏していき、
金管楽器や弦楽器などが加わり、うねりのある音楽となる。
最後は冒頭の和音が示される中で終わる。
第二楽章「お葉容(はよう)のおしゃべり」は、
クラリネット・ソロから始まり弦楽器へと移り、
フルート、ピアノ、ハープが幻想的な世界を描いていく。
ここでもピアノは重要な役割を演ずる。
第三楽章「河の水のそばで」は、ピアノが伴奏的な音を奏し、
金管楽器が荒々しい音楽を演奏し、室内楽的な部分も見せ、
リズミックな動きと、叙情的な流れる旋律が印象的である。
その一方で、はしゃいだような軽快な音楽もあり、
いろんな音楽の要素が混在した楽章である。
第四楽章「河の終わり」は、ホルンの吹奏から始まり、
第一楽章の中の旋律などそれまでの楽章の旋律が、
再現されていくようで、最初に戻るような感じを抱かせる。
終わりは静かに、そしてまだ謎を秘めたまま終わる感じだ。
ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」に影響されたのもわかる。
しかし、秋の夜長にと思って読んでいるジョイスの
「フィネガンズ・ウェイク」は難解な作品である。