桜の樹の下の屋台

2009-02-19 18:54:56 | 日々

090219

自宅近くに、焼き鳥の屋台があります。小さな疎水べりに桜並木が続いていて、一本の桜に寄り添うように、その小さな屋台は建っています。もう動かすつもりはないのか、車輪などはついていません。格納してある板戸をぱたんぱたんと折りたたみ、カウンターをおこすと、ちいさな店に早変わり。それにしても日本の大工さんの知恵と技術はすごいもんですね。これだけの可動部分を綺麗におさめ、収納時にはミニマムな美しさすらたたえています。

とにかく小さくコンパクトにできているその屋台は、夕方にオープンします。おやじさんがひとり入るのがやっとの大きさ。屋台のカウンターの真ん中にひとつ、小振りの瓶が置いてあって、焼き始める前にその中に一回、ちゃぽんと串をつけます。それを炭火で焼きます。

赤い提灯の光。裸電球に照らされた、すすけたお品書きと、串の数々。もくもくとあがる煙。じじじ・・・という静かな焼き音。さらさらと疎水の流れる音。そのゆっくりと流れる時間に、なにか心落ち着く気持ちになります。時代がどのように変わろうと、ここだけは変わらない時間が流れているような。いえ、ここだけは変わらないでほしいと願いたくなるような。

仕上げにもう一回、瓶に串をちゃぽんとつけます。秘伝の、たれ。少しずつ足しながら使い続けているのでしょう、この複雑な味は一体なんだ・・・?

仕事が終わるのは、日付が変わる頃。しゃっしゃっしゃっと、後片付けの洗う音が、しんと静まりかえった辺りに響きます。辺り一帯の落ち葉もきれいに掃除され、翌朝にはいつも通り小さく、口を真一文字に結んだようにきゅっと引き締まって、屋台は桜の木に寄り添っています。こんな光景が変わらぬことを心のどこかで願いつつ、その脇をすりぬけて事務所に向かいます。でも、桜のある疎水べりという場所が、どこか儚げなんだよなあ。そういえば、日本の美しい風景も、どこか儚げなところに美徳があった。

今年の正月、屋台にはきちんと正月飾りがしつらえられていました。古びた屋台に、凛とした尊厳がやどっているような、そんな雰囲気でした。簡素なもののもつ美というのは、本来こういうことを指すのかもしれません。

桜の樹の下にある屋台。梶井基次郎の「桜の樹の下には」ではありませんが、桜というのは、いろんなことに思いを馳せさせる力をもっていますね。桜の季節まで、あともうすこし。

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