時として絵画のなかには、かけがえのないほど美しい風景や場所が現れるときがあります。埼玉県立近代美術館で開催中の展覧会で、はじめて観た小村雪岱の絵は、僕にとってそんな絵でした。
手元にいくつかの、小村雪岱の絵はがきがあります。抽象的に分割された画面構成のなかに、それぞれの室内外の光景が描かれています。
青柳を透かして見える瓦屋根と左官塗りの壁。濡れ縁。畳。その上に置かれた三味線と鼓。
室内を断片的に切り分けた構図のなかに現れる、月夜のなかの女。襖の向こう側の闇。そして衝立の奥に感じられる明るい灯りの気配。朱色の棚。畳に忘れられた扇子。
外に差し出されたテラス。外に向き合う文机。落葉に覆われる世界。
光も影も描かれず、実在しているようでありながら、決して実在することのないであろう、抽象的な世界。でも、そこに描かれる事物は、とても細密で具象的です。
抽象と具象。絵画芸術の誕生以来ずっと論議されてきたこの二つの概念の間を、小村雪岱の絵は行ったり来たりしながら漂っています。
ものごとの真実を表現しようとするとき、目の前にあるものを写実的に置き換えようとするのではなく、
部分的には省略し
部分的には誇張し
そうして嘘でできあがった画面のなかに、真実らしさを漂わせることが大切だと、小村雪岱は言います。
それはきっと、「型」をつくることにもつながっていくのだと思います。そういえば柳宗悦も茶道論のなかで言っていました。直心の交わりにあたり、余計な要素を排し、所作を煮詰めていくことで「型」に入る、「型」に入ることで、ものごとは美しくなろう、と。映画「おくりびと」でも、その美しい所作が話題になりました。それも「型」に入った姿なのだろうと思います。
小村雪岱の絵も、「型」に入った姿なのだと、僕は思います。日常の光景をつくる断片ひとつひとつを等価に扱いながら、時に省略し、時に誇張し、もっとも美しいかけがえのない日常の瞬間をつくりだす、そんな「型」の絵だと思います。室内の描かれた構図にことさらに惹かれたのは、僕が建築家だから、ということもあるかもしれません。でもこれらの絵は、建物のデザインだけでは到底かなわないような、日常への徹底した美意識に貫かれているように思います。それは特殊なことではなく、むしろ日常のなかに本来おのずと含まれているような美。それを浮かび出せるというのが、小村雪岱の仕事だったように思います。
そしてさらに素晴らしいのは、これらが「芸術」として描かれたというよりは、庶民が手にする本の装丁や挿絵として描かれていたということ。内面の吐露としての絵ではなく、人々の心に「伝わる」ものとして描かれていました。そんなところにも、小村雪岱という画家の奥深さを感じます。