先週日曜日、美ヶ原に登る。天気良好、暑くも寒くもなく、誠に気持ち良い。
猛暑逝(ゆ)き 火照りを遺(のこ)せし すすきかな
常念乗越まで日帰り往復。午前三時起床のつもりが、興奮したのか二時に目覚めた。遊びと仕事はかくも違うのかと思う。
一時間早く行動したおかげで駐車場も何とか確保できた。丑三つ時でも車はいっぱいである。あちらこちらでライトを照らしてごそごそしている。みんな睡眠時間を削って、わざわざ疲労困憊しに来ているのである。物好きな連中だなあと自分のことを差し置いて感心する。
暗いうちに歩き始め、山腹で朝日を浴びる。
中秋や 夜明けの森の 鈴の音
登るにつれてぽつぽつと紅葉が始まった。立ち止まって眺めれば、山の斜面を走るようにして黄や赤に色づいているのが確かめられる。雲が流れ、暑くも寒くもない。実に快適な登りであった。
乗越まで出ると、途端に風が強くなった。これだから山は侮れない。小屋に逃げ、体を温めようとカップ麺を啜る。
下山は登りと同じくらい時間がかかった。常念は三回目だが、いつ来ても下りが長いと感じる。同じ道を来たはずなのにおかしい。いくら何でも長過ぎる、と感じる。不思議な山である。車にたどり着くころには、ちゃんと足が棒になった。
もうこりごりと思いながら、またいつか登るのだろう。そんな山である。
一年に一回は海を見たい。私の住む信州は「海なし県」と言われ、物理的にも精神的にも海が遠い。遠いと余計見たくなるのが人情である。
車に乗せろと発狂する犬を乗せ、日本海に向かう。
暑い。でも海はそこにあった。
波打ち際まで下りていこうと砂浜に足を入れたら、火にかけたフライパンの上を歩いているようだった。犬もびっくりしている。これで少しは懲りるといい。だが火傷は困る。犬を抱き上げ、退散する。
海辺のカフェを見つけ、避難した。ナポリタンとコーヒーフロートを注文し、海を眺めながらゆっくりと時を過ごす。
潮風が心地よい。犬は寝ている。
水平線に向かっていくつか問いかけてみたが、返事はなかった。
帰宅後テレビをつけてみると、本日は新潟が日本最高の37度越えを記録したとのことだった。わざわざ一番暑い日を選んで行ったらしい。思い付きで行動すると、そういう馬鹿を見る。まあそれでも、海とじっくり対峙できてよかった。答えは聞けなかったが、背中を押してもらったような気がする。
明日からも頑張れそうだ。
街に向かって悪態をつく。
空に向かって暴言をはく。
自分の陥った境遇のすべてを
自分以外のすべてに責任転嫁して
顔をどす黒く染めて呪う。
「馬鹿野郎! てめえ」
それから小さな声で謝る。
力なく視線を落とし謝る。
自分のしてきた事すべてと
自分のしてこなかったすべてに
顔を薄赤く染めて謝る。
「馬鹿野郎が・・・・・・・」
登山靴が重い。
五十になるまでは感じなかったことだ。
年齢と結びつけて考えること自体が、足取りを重くさせるのか。
道端にはキンポウゲやイワカガミがのんきに咲いているというのに、まるで親の仇のように汗だくの顔でそいつらを睨みつけながら、一歩一歩よじ登っていく。
一人登山は寡黙なばかりでつまらない。しかしそれを年に何度かやらないと、自分が駄目になってしまいそうな気がする。そう思って登る。息が切れる。膝が痛い。暑くて暑くて堪らない。おい、お前。と自分に問う。駄目になってしまいそうって言うけど、じゃあ駄目にならなければ、お前はいったい何になるのだ。何にもなってないではないか。駄目になってもならなくても大して変わりがないじゃないか。その程度のちっぽけな存在じゃないか、お前は。なのになんでこんなに苦しむのだ。
登山靴が横に這う木の根に引っ掛かり、転びそうになった。
五十になるまではなかった失態だ。くそっ。
五十、五十とうるさい奴だな。年齢とやたら結び付けて考えたがるのは、つまり区切りをつけたい、ということか。お前のここまでしてきた苦労に。忍耐に。ちっぽけな冒険に・・・お前はもう、隠居したい、ということか。五十だから、と微笑んで。静かに茶でも啜りながらこれから先を生きるつもりか。
蝶ヶ岳は階段ばかりで疲れる山だ。ずっと眺望も悪い。ただ頂上まで来ると、一気に視界が開けて気持ちがいい。それだけを期待して登る山である。数年前一度登って懲りたはずなのにまた登っている。汗だくのみっともない格好で。階段の度に立ち止まり、肩で息をしながら。
ここまで来たなら歩けよ。なあ。ここまで来たというそれだけの理由でいいから。
歩け、ほら。
山には目に見える頂上がある。人生の頂上は、後からしかわからない。
だから人生は、登山のようにはいかない。
集団の中にいると、図らずも間違いを犯してしまう。
孤立していると、何が正しいか不安に取り憑かれてしまう。
その加減が難しい。
※写真は、前回掲載し損ねた三本滝。
何しろ毎日我慢大会のように暑い。涼しそうな所ならどこへでも逃げたいと思う。
それで、乗鞍の三本滝を観に行った。予備知識はあまりない。
上高地線をひたすら車で上り、幽霊の出そうな長く狭いトンネルを抜けると、乗鞍高原に入る。
ここまでくると、それまでひしめいていた車の列が嘘のようになくなる。やはり乗鞍が賑わうのはスキーシーズンなのだろう。
スキー場近くのカフェレストランのテラスで昼食をとる。閑散期だから、至って静かである。店主までが、ねじを巻き忘れたようにのんびりしている。ナポリタンを注文したら、絵に描いたような懐かしいナポリタンが出てきた。しっかりとケチャップがきいた味で、旨い。木の葉が涼しげに日差しを揺らし、道路には誰も通らない。充分だ。これで充分だと思った。
それでも目的地まで行こうかと、コーヒーを二杯飲んでから席を立ち、先を行く。どこへ連れていかれるのか不安になるほどの山道を行ったら、入り口の駐車場にたどり着いた。
大きなビジターセンターがある。外のベンチでは、何組もの観光客が汗を拭いている。みな、割合しっかりと山行きの服装をしている。思ったよりずっと有名な場所らしい。
そこから歩いて一時間余り。木立を抜け、渓流を渡った。なかなかに登山気分が味わえて気持ちがいい。
こういう所を行くたびに思う。
自然の中は、圧倒的に情報量が多い。土や落ち葉を踏みしめる香り、見て飽きることのない様々な植生、鳥のさえずり、羽虫、川のせせらぎ、清冽な空気。巷では情報化社会と言われているが、しょせんそのほとんどがパソコンの画面上で得られる情報だ。その情報量に比べて、この林間に横溢する情報の無限なまでの豊かさよ。もちろん、これを情報と呼ぶか、単なる景色と呼ぶかは人それぞれであろう。が、ネット社会の情報だって、芸能人が離婚したとかくっついたとか、あの有名人がああ言ったとかそれで叩かれたとか、果たして情報に入るのかと疑いたくなる情報が多くないか。
我々は昔の人に比べて、知識が増えているのだろうか?
終着点にある三本滝は、想像以上に見事だった。激しく落ちる滝、岩肌をなめるように下る滝、高いところで現れては消える滝。造形の異なる三本の滝が落下点で一つの川に合流する様は、どこに目を向ければ一番いいのかわからないほど変化に富んでいた。
写真はまたいつか載せようと思う。
それとも、と思い直す。写真を載せればより正確な情報が伝わると思っているあたりが、すでに情報化社会に洗脳されたか?
大きな仕事が一つ終わり、エオンタに行く。
心を整えるときによくその店を使っている。
ざらざらな触感を残したジャズの音色。上質な酒と珈琲。いつでも変わらない心地よさと信頼感。
その店には確かなものしか存在しない。
エ・オンタ(存在する者たち)。
グラスに口をつけ、じっと耳を澄ますと、音楽がまるで無音のように体に染み入ってくるのがわかる。
僕は自分に囁く。
「よし。じゃあ、次は何をしようか。」
※写真は夫神岳。