あかき葉に雨しむる秋
なぜ泥酔してるのだJK!
敏男は歯噛みをした。
JK! お前を雇った意味がない!
よれよれのトレンチコートが、このとき、ずるずると動いた。
「あ・・・あ、よく寝た」
顧客からJKと暗号名で呼ばれるこの男は、大きな伸びとあくびをした。長い前髪に端正な鼻。えぐれたように彫りの深い目。
「済まんねママさん。もう飲めないや。お勘定」
「はいよ。たくさん飲んでもらったね。水割り十三杯で六千五百円です」
「安いなあ」
唖然とする敏男の目線にはまるで気付かない様子で、彼はふらふらと立ちあがって金を払い、店を出た。
なぜだ。
川底の臭いのする夜気が店に入り込む。
なぜ帰るJK!
「さ、敏男さん。気兼ねする客もいなくなったし」
畜生が。前払い金返せ!・・・
「いや」
彼は表情を固くして立ち上がった。「帰る」
女は顔を真赤に染めた。目には再び涙が溢れた。
「私の入れたお酒が飲めないの?」
「すまん・・・これは、今日の代金と、十年間の・・・いや、とてもそれには満たんだろうが・・・」
彼は一万円札を十枚、カウンターに放りだすと、壁にかかるマフラーを引き千切るように掴んだ。
「すまん。許してくれ」
ドアが荒く閉まる。
由紀子は止めどなく泣いた。
「馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。どうして? どうしてなの? あたし、あたし今でも、こんなにあんたのことが好きなのに」
男が手をつけなかったグラスを彼女は持ち上げ、一気にあおった。自分の入れた毒の味は、わからなかった。
「これじゃ、目的は一つしか達成できないじゃない」
笑うように泣き、泣くように笑った。そのまま突っ伏して、いつまでもおいおいと肩を震わせた。
かつて女鳥羽川は、河鹿蛙がそこここで喧しく鳴く清流であった。それが高度経済成長期に家庭排水の行き場と化し、一匹の蛙も鳴かなくなった。それと呼応するように、松本の街の活気も蠟の尽きた灯火のごとくしぼんでいったという。再び河鹿蛙の鳴く川に戻せば、街の活気も戻るだろうと、水質改善の努力がなされている。川沿いには蛙のモニュメントまで建っている。水質は、フナや鯉が泳ぐまで綺麗になった。しかし蛙はまだ鳴かない。通りの活気も、かつてほどには戻らない。
失った過去は、そう簡単には取り戻せない。
中の橋は、女鳥羽川に架かる幾つかの橋の中で、いわゆる太鼓橋の形をした小さな橋である。トレンチコートのJKはその赤い欄干にもたれて佇んでいた。そこへ息を切らせてバーバーリマフラーの敏男が駆けつけてきた。
追いついた男は、待っていた男の襟を両手で掴んで突き上げた。
「どういうことだJK。え? どういうことだ。お前に二十万で頼んだ仕事は、へべれけに酔っぱらって中途で帰ることじゃなかったはずだぞ。万が一のためにお前を雇ったんだろうが。トンズラするたあどういうことだ。畜生、おかげで、すんでのところで毒杯を仰がされるところだった。看板下ろせ、こら。探偵の看板下ろせ。とりあえず手付金の十万、すぐ返せ」
「契約通りの仕事はしましたよ、坂上さん」
「何?」
坂上敏男は手を離した。JKは悠然と襟元を直し、一つ吐息をついてから言葉を続けた。
「あのヘネシーに毒は入っていません。いや、正確に言えば、昨夜までは混入していました。昨晩遅くですがね、店が閉まって誰もいなくなってから、店の中へ侵入させてもらって、棚から引き出しから怪しいものは全部調べさせていただきました。あなたの名前でキープされたあのボトルからは、有機リン系の毒物が検出されました。おそらく前日に殺虫剤か何かを混入したのでしょう。私はそういうものを検出する簡便な器具を持ち歩いてますのでね。そのままではさすがに具合が悪いので、中身をそっくり、ただのブランデーと入れ替えておいたんです」
「何・・・」
「殺人の手段をそれで絶ったわけです。それでも、万が一刃物とか拳銃とかを持ち出した場合にと、店に客として入って、酔ったふりをして張ってました。が、あの中身を詰め替えた後のボトルを出すのを見て、安心して引き上げたんです。坂上さん」
話し手は女鳥羽の流れを見下ろした。水面は、石油を流したように黒い。
「聞けば、あの女もかつて、なかなか苦しい思いをあなたにさせられたみたいじゃないですか。あなたも私を信用してですね、だまされたふりをして──と言うか、相手を信じるふりをして、一杯飲んでから引き上げるくらいしてあげても、良かったんじゃないですか」
「・・・」
「それでも、私の想像ですが、もし仮にあなたがそういう行動に出ても、あの女は飲もうとするあなたの手を止めて、最後まで飲ませなかったんじゃないかな。わかりませんけどね、そんなことは。あの女はいろいろあっても、どうやらまだあなたに惚れてますよ」
「・・・」
「さて、残り十万、いただきましょうか」
「ま、待ってくれ。さっき店を出てくるときに、あいつに全部渡してしまった。済まん・・・私なりに・・・急に、そうしたくなったんだ。だから今、手持ちがない」
JKはにっこりほほ笑んだ。
「結構です。残り十万はいただきません。まあね、ちょっと身勝手な行動をとらせてもらったのも確かですし」
返答に窮する中年男を置き去りにして、トレンチコートの私立探偵は颯爽と橋を渡って去って行った。
残された一つの人影は、赤い欄干に手を突いた。
ネオンに眠れないのか、川べりでカルガモが一声鳴いた。(おわり)
敏男は歯噛みをした。
JK! お前を雇った意味がない!
よれよれのトレンチコートが、このとき、ずるずると動いた。
「あ・・・あ、よく寝た」
顧客からJKと暗号名で呼ばれるこの男は、大きな伸びとあくびをした。長い前髪に端正な鼻。えぐれたように彫りの深い目。
「済まんねママさん。もう飲めないや。お勘定」
「はいよ。たくさん飲んでもらったね。水割り十三杯で六千五百円です」
「安いなあ」
唖然とする敏男の目線にはまるで気付かない様子で、彼はふらふらと立ちあがって金を払い、店を出た。
なぜだ。
川底の臭いのする夜気が店に入り込む。
なぜ帰るJK!
「さ、敏男さん。気兼ねする客もいなくなったし」
畜生が。前払い金返せ!・・・
「いや」
彼は表情を固くして立ち上がった。「帰る」
女は顔を真赤に染めた。目には再び涙が溢れた。
「私の入れたお酒が飲めないの?」
「すまん・・・これは、今日の代金と、十年間の・・・いや、とてもそれには満たんだろうが・・・」
彼は一万円札を十枚、カウンターに放りだすと、壁にかかるマフラーを引き千切るように掴んだ。
「すまん。許してくれ」
ドアが荒く閉まる。
由紀子は止めどなく泣いた。
「馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。どうして? どうしてなの? あたし、あたし今でも、こんなにあんたのことが好きなのに」
男が手をつけなかったグラスを彼女は持ち上げ、一気にあおった。自分の入れた毒の味は、わからなかった。
「これじゃ、目的は一つしか達成できないじゃない」
笑うように泣き、泣くように笑った。そのまま突っ伏して、いつまでもおいおいと肩を震わせた。
かつて女鳥羽川は、河鹿蛙がそこここで喧しく鳴く清流であった。それが高度経済成長期に家庭排水の行き場と化し、一匹の蛙も鳴かなくなった。それと呼応するように、松本の街の活気も蠟の尽きた灯火のごとくしぼんでいったという。再び河鹿蛙の鳴く川に戻せば、街の活気も戻るだろうと、水質改善の努力がなされている。川沿いには蛙のモニュメントまで建っている。水質は、フナや鯉が泳ぐまで綺麗になった。しかし蛙はまだ鳴かない。通りの活気も、かつてほどには戻らない。
失った過去は、そう簡単には取り戻せない。
中の橋は、女鳥羽川に架かる幾つかの橋の中で、いわゆる太鼓橋の形をした小さな橋である。トレンチコートのJKはその赤い欄干にもたれて佇んでいた。そこへ息を切らせてバーバーリマフラーの敏男が駆けつけてきた。
追いついた男は、待っていた男の襟を両手で掴んで突き上げた。
「どういうことだJK。え? どういうことだ。お前に二十万で頼んだ仕事は、へべれけに酔っぱらって中途で帰ることじゃなかったはずだぞ。万が一のためにお前を雇ったんだろうが。トンズラするたあどういうことだ。畜生、おかげで、すんでのところで毒杯を仰がされるところだった。看板下ろせ、こら。探偵の看板下ろせ。とりあえず手付金の十万、すぐ返せ」
「契約通りの仕事はしましたよ、坂上さん」
「何?」
坂上敏男は手を離した。JKは悠然と襟元を直し、一つ吐息をついてから言葉を続けた。
「あのヘネシーに毒は入っていません。いや、正確に言えば、昨夜までは混入していました。昨晩遅くですがね、店が閉まって誰もいなくなってから、店の中へ侵入させてもらって、棚から引き出しから怪しいものは全部調べさせていただきました。あなたの名前でキープされたあのボトルからは、有機リン系の毒物が検出されました。おそらく前日に殺虫剤か何かを混入したのでしょう。私はそういうものを検出する簡便な器具を持ち歩いてますのでね。そのままではさすがに具合が悪いので、中身をそっくり、ただのブランデーと入れ替えておいたんです」
「何・・・」
「殺人の手段をそれで絶ったわけです。それでも、万が一刃物とか拳銃とかを持ち出した場合にと、店に客として入って、酔ったふりをして張ってました。が、あの中身を詰め替えた後のボトルを出すのを見て、安心して引き上げたんです。坂上さん」
話し手は女鳥羽の流れを見下ろした。水面は、石油を流したように黒い。
「聞けば、あの女もかつて、なかなか苦しい思いをあなたにさせられたみたいじゃないですか。あなたも私を信用してですね、だまされたふりをして──と言うか、相手を信じるふりをして、一杯飲んでから引き上げるくらいしてあげても、良かったんじゃないですか」
「・・・」
「それでも、私の想像ですが、もし仮にあなたがそういう行動に出ても、あの女は飲もうとするあなたの手を止めて、最後まで飲ませなかったんじゃないかな。わかりませんけどね、そんなことは。あの女はいろいろあっても、どうやらまだあなたに惚れてますよ」
「・・・」
「さて、残り十万、いただきましょうか」
「ま、待ってくれ。さっき店を出てくるときに、あいつに全部渡してしまった。済まん・・・私なりに・・・急に、そうしたくなったんだ。だから今、手持ちがない」
JKはにっこりほほ笑んだ。
「結構です。残り十万はいただきません。まあね、ちょっと身勝手な行動をとらせてもらったのも確かですし」
返答に窮する中年男を置き去りにして、トレンチコートの私立探偵は颯爽と橋を渡って去って行った。
残された一つの人影は、赤い欄干に手を突いた。
ネオンに眠れないのか、川べりでカルガモが一声鳴いた。(おわり)
何と多くの幸せが一波で奪われたことか!
わたしは、ぼうぜんとするしかないのか。
亡くなられた、数えきれない方々のご冥福を
ここで、テレビの前で、どうやって祈ればいいのか。
わたしは、ぼうぜんとするしかないのか。
亡くなられた、数えきれない方々のご冥福を
ここで、テレビの前で、どうやって祈ればいいのか。
熊本にいる恩師が退官するという情報を得た。迷った末、週末、信州松本から肥後熊本に向かう。金曜日の夜十時まで仕事をし、十時半から夜行バスに乗って大阪へ。大阪から新幹線と特急列車を乗り継ぎ、土曜日午前11時に熊本着。さっそく挨拶したり飲んだり食べたり、最終講義を聞いたりなどして、同日夕方六時にはまた熊本を発ち、行きと反対のルートを辿り、翌日曜日朝六時に松本帰着。行きに十二時間、帰りに十二時間。現地の滞在時間およそ六時間。帰松後そのまま朝九時から夜の十時まで仕事をしたのだから、37歳はまだまだ若いんじゃないかと妙な自信がついた。
奇跡的にハプニングらしきものはほとんどなかったが、行きの博多駅で、新幹線から在来線に乗り継ぐとき、誤って(というより乗り継ぎの時間に焦って何も掲示を見ていなかったのだ)外に出る改札口で機械に切符を通してしまった。当然切符は機械に入ったまま出てこない。近くにいた駅員に、「すみません間違えました在来線に乗り換えるんです時間がないんです」といったようなことを赤い顔で早口にまくしたてたら、若い彼は「月に三度はこういう奴が出てくるんだな」という表情をして、機械を開け、八組くらい混ぜ合わされたトランプカードの中から一枚を探し出すように、私の切符を探し当ててくれた。発車時刻は迫るし、行き交う人は原始的な作業風景に興味を示して、こちらをじろじろ見てくるしで、冷や汗の三、四筋は流したと思う。間違えて機械に入れた切符を取り戻そうとすると、こんな苦労を味わうのだとつくづく認識した一コマであった。(つづく予定)
奇跡的にハプニングらしきものはほとんどなかったが、行きの博多駅で、新幹線から在来線に乗り継ぐとき、誤って(というより乗り継ぎの時間に焦って何も掲示を見ていなかったのだ)外に出る改札口で機械に切符を通してしまった。当然切符は機械に入ったまま出てこない。近くにいた駅員に、「すみません間違えました在来線に乗り換えるんです時間がないんです」といったようなことを赤い顔で早口にまくしたてたら、若い彼は「月に三度はこういう奴が出てくるんだな」という表情をして、機械を開け、八組くらい混ぜ合わされたトランプカードの中から一枚を探し出すように、私の切符を探し当ててくれた。発車時刻は迫るし、行き交う人は原始的な作業風景に興味を示して、こちらをじろじろ見てくるしで、冷や汗の三、四筋は流したと思う。間違えて機械に入れた切符を取り戻そうとすると、こんな苦労を味わうのだとつくづく認識した一コマであった。(つづく予定)
凍てつく夜の散歩に星座を探す。北斗七星、カシオペア座、振り返ればオリオン座。彼らがどれも意外に大きいことに今更ながら驚く。彼らは何千年も、世界中のいたるところで人類を圧倒し続けてきたのだ。ポケットに両手を入れて震えてながら立っているわが身の何と小さいことよ!
彼らの光は何万光年を経ても地球まで届く。一方で、地球上で人間たちが作りだしたきらびやかな照明の数々は、しょせん彼らのもとには届きはしない。太陽系を出ることすら不可能であろう。
何だかそういうことが安心できる。この広大な宇宙では、人間は決して大きくは間違い得ない、というような。
あまりに寒いので、散歩は早々に切り上げた。
彼らの光は何万光年を経ても地球まで届く。一方で、地球上で人間たちが作りだしたきらびやかな照明の数々は、しょせん彼らのもとには届きはしない。太陽系を出ることすら不可能であろう。
何だかそういうことが安心できる。この広大な宇宙では、人間は決して大きくは間違い得ない、というような。
あまりに寒いので、散歩は早々に切り上げた。
病院に義母を見舞う日が続く。病棟内の空調は完璧であり、暑くも寒くも感じない病室の窓から外の冬景色を見渡すと、外界のほうが何か非現実な一幅の絵画のように思えてくる。実際には病棟を漂う空気のほうがずっと人工的で、静けさに包まれた中にも不気味なほど不穏なのだ。
小春日や 花と病と 孫の声
小春日や 花と病と 孫の声
長らく更新を怠っていたら、友人が死んだのではないかと心配して電話をかけてきた。全くもってありがたいことである。私自身、そろそろさすがに何か書かなければと気にかけていたのだが(それはもちろん締め切りがあるためではなく、ブログ自体が機能しなくなるのを恐れてである)、落ち着いてパソコンに向かう時間の欠如と、落ち着いて話題を探す時間の欠如によってここまで無沙汰をしてしまった。
私が言葉を失って日常の砂地に足を取られている間にも、北アルプスは冠雪し、愉快な人と酒の席を囲む機会があり、悩ましい事件に悩まされ、それなりに話題は幾多も転がっていたはずである。まずまず、私の怠慢であろう。
友人へ。私は生きています。岩礁にへばりつく貝のように。時折背を洗う波の冷たさに震えながらも。
私が言葉を失って日常の砂地に足を取られている間にも、北アルプスは冠雪し、愉快な人と酒の席を囲む機会があり、悩ましい事件に悩まされ、それなりに話題は幾多も転がっていたはずである。まずまず、私の怠慢であろう。
友人へ。私は生きています。岩礁にへばりつく貝のように。時折背を洗う波の冷たさに震えながらも。