た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

読み切り短編  『いいわけ譲治君』

2017年11月11日 | 短編

 

 矢野譲治君はすぐに言い訳をする。

 子供の頃からそちらの面では大成していた。学校に持参すべきプリントを忘れたのはそのプリントが必要だと思わなかったからであり、持参するよう言われたにもかかわらず忘れたのは聞いてなかったからであり、その話を聞いてなかったのは、そんなに大事なプリントだと思わなかったからである。蛇が自分の尻尾をくわえているような論理である。言い訳にならない言い訳をして一向に平気である。「だってしかたない」のだ。テストの点が悪いのは本気を出さなかったからであり、暴投するのは手が滑ったからであり、夢がかなわないのは、その夢に魅力を感じなくなったからである。

 譲治君はすらりとした手足と甘いマスクを持ち、やたら言い訳が多い。

 現在、彼は都内の私立大学一年生である。                           

 ちなみにその大学は彼にとって第五志望か第六志望くらいのところであった。そこに落ち着いた原因は、センター試験並びに二次試験の傾向が変わったことと、年明けに風邪を引いたことと、高校教師の指導能力が不十分だったことにあるらしい。譲治君は他人にはなかなか厳しい。好きだった野球を大学でも続ける気でいたが、部活動の先輩に「ろくなのがいない」ことを理由に、一カ月で合コン中心のテニスサークルに転部した。

 譲治君はときどき腰を丸めて座りこみ、じっと手のひらを見つめてひどく暗い表情をすることがある。手のひらではスマートフォンが芸能界ニュースを流していたりするが、彼の視点はそこにはない。

 彼も自分が嫌になることがあるのである。

 

 「いい加減、逃げるのを止めろ」

 父親の雅之さんに諭されたことがある。そのとき譲治君は大学の野球部を一週間無断欠席した上で、結局退部したところであった。電話で息子が「人間的に最低な」先輩たちの行状について滔々と報告するのを黙って聞いていた雅之さんが、全部を聞き終えてから言った言葉であった。息子からの返答はなかった。

 矢野雅之さんは体中の生気を絞り出すような深いため息をついた。

 「なあ譲治。聞いてるか? 目の前のことから逃げるな。お前、ずっと逃げてばっかりじゃないか。なあ。ほんとうに、お前は根性がないな」

 受話器の向こうで息子の体が固まったのがわかった。雅之さんは受話器を握りしめて返事を待った。

 譲治君の沈んだ声が返ってきた。

 「僕はそんな強い人間じゃない。だって僕の年齢で、そんな完璧に強い人間なんていないし。誰だってそうだと思う。父さんだって、人のこと言えないと思う」

 親子の電話はそれで切れた。

 

 大学一年生の夏、彼は恋をした。

 恋は人間を変える好機である。譲治君もそう思った。

 相手は、同じテニスサークルに属する一年先輩の、大谷玲子さんであった。お稲荷さんの狐のように、つり上がり気味の目でじっと相手を見つめる癖のある、すっきりした顔立ちの女性である。よく晴れた日の午後、譲治君は、テニスコート脇の用具室にある自動販売機の前に彼女を呼び出した。

 「ねえ、用事って何」

 「いや、あの、玲子さんって、彼氏いるんすか」

 玲子さんは腰に手を当てた。「何それ。彼氏なんかいないわよ」

 「ああ、そうすか」

 「ちょっと、なんでそんなこと聞くの」

 「いや、どうかなって思って」

 「どうかなってどういうこと。はっきり言いなさいよ」

 大谷玲子という人は、包丁で大根を刻むようにどんどん物事の白黒を片付けて行かないと気が済まない質である。

 譲治君はひどく動揺した。

 「いやその、もしよかったら、今度の日曜日空いてたらでいいんですけど、映画見に行きませんか」

 「何それ。デートの誘い?」

 「いや、その、妹がジブリを観たいってしつこくて・・・妹、小学六年生なんですけど、あいつのためにチケット二枚買ってやったら、結局、あいつ用事で行けなくなって・・・」

 「え、なに? 妹さんの代役ってこと?」

 「いや、そういうわけじゃ」

 「ねえ、なんで、彼氏がいるのか訊いたわけ?」

 譲治君は首筋を撫でて天を仰いだ。彼は早くも後悔し始めていた。 

 「え、そりゃ、あれっす。だってもし彼氏がいたら、その、日曜日は彼氏さんといろいろあるに決まってるから・・・」

 腕組みをした玲子さんは、まじまじと譲治君を眺めた。

 「君っていつもそんな喋り方するの?」

 「そんな喋り方ってどんな喋り方ですか」

 「わかんない。ひと言ひと言に保険かけたみたいな喋り方」

 「そうすか」

 「怒ったの?」

 「いや、別に。あの、行きたくないならいいです」

 立ち去ろうとする男の手を、女の手が強く掴んだ。

 「待ちなさいよ。誰も行きたくないなんて言ってないじゃない」

 

 デートの当日は雨であった。

 譲治君は寝坊した上に着ていく服に迷い、結果として、待ち合わせ場所に遅刻した。

 約束の時刻より二十七分ほど遅れて到着した彼が、息を切らせながら、雨でバスが渋滞に巻き込まれたことを告げると、玲子さんは傘を素早く開閉し、傘に溜まった滴を彼に浴びせた。

 「遅れたのは遅れたとして、お願いだから言い訳はしないで」

 

 この二人がうまくいかないのは当然の成り行きであると、誰よりも譲治君自身が信じて疑わなかったが、世の中は不思議なからくりで出来上がっているらしく、二人はそれからつき合い始めた。デートのたびに玲子さんは何かしら譲治君の言動をなじり、そのたびに譲治君がふてくされている観があったが、週が替わると誰かにリセットボタンを押されたように、またよりを戻すのだった。

 譲治君はさすがに玲子さんのきつい性格にうんざりすることがあった。美人だし性欲も満たされるし、性格がはきはきしてて面白い部分もあるけど、奥さんになったら一生尻に敷かれるに違いない。結婚はしないでおこう、と密かに心に決めていた。一歳年上の玲子さんは大学を卒業すると外資系の会社の経理に就いた。翌年、譲治君は折からの不景気で、行きたかった大手の採用試験にはことごとく落ちたが、なんとか地元の小さなリース会社の営業職を得た。「まあ、足掛けになるかも知れないけど」と彼は知人に言った。いろんなことを足掛けにしながら、世の中を適当に渡っていこうと彼は考えている節があった。

 二人は社会人になっても相変わらずつき合い続けた。

 

 夜桜を眺めるレストランのテラス席で、ワインボトルを一本空けたことがあった。

 酔って頬を赤く染めた玲子さんが、テーブルに置かれた譲治君の手を触った。

 「ねえ、やっぱり結婚しようよ」

 譲治君は酔いを頭から追い出すように眉をしかめ、意識を集中した。「結婚?」

 「結婚よ」

 「また、急な」

 「急じゃないわ。去年のクリスマスでもその話になったでしょ。四月までにお互いにしっかり考えておこうって言い合ったじゃない」

 「それは・・・そうだよ。でも酔って話す話じゃないよ」

 「酔ってても話せるわ」

 「無理だよ」

 「どうして無理なの」

 「いや、そりゃ話そうと思えば話せるけど」

 「だってもう四月よ」

 「四月になったら決めるって・・・約束したね」

 「やっぱり、忘れてたのね」

 「そんなことはない。そんなことはないけど、四月になりました、はいさっと決められる話じゃないよ。そうでしょ? 結婚って大事なことじゃん。結婚って、君は簡単に言うけど、結婚は簡単じゃないよね。だって僕ら、まだ大人になったばかりだし。会社じゃまだ新人だし、まだまだもっと、その、貯蓄とかしてから、結婚するならすべきだと思う。いくらなんでも、まだ早いと思わない?」

 玲子さんの赤い顔が、どす黒く染まった。彼女は嘆息した。

 「結婚したくないなら、結婚したくないの一言で済むじゃない。どうしてあなたはそうまどろっこしいの?」

 

 それから一年後、二人は結婚した。

 翌年には一人娘も授かった。

 娘の誕生と入れ替わるように、彼の父親の雅之さんが肺癌で亡くなった。おじいちゃんが生まれ変わったのかな、と、彼の母親の弓枝さんは孫を抱いて笑った。譲治君はあからさまに嫌な顔をした。

 初雪の降った十二月の暮れ、彼は一度だけ浮気をした。

 会社の忘年会の後であった。

 事務員の女の子で、人形のように可愛らしい後輩がいた。彼女の方が、先輩の譲治君に対して積極的であった。宴会の最中から彼の膝に手を置かんばかりにすり寄り、冗談話をしては笑い転げた。潤んだ大きな瞳はしょっちゅう彼を捉えて離さなかった。もちろん彼としても満更でもなかった。育児に忙殺され、夫婦の営みが疎遠になっている現状への不満もあった。しかし彼は自制した。女の子の飲み過ぎを咎めた。

 会が開け、タクシーを拾って帰る段になり、酔いつぶれた彼女を誰かが一緒に送っていくべきだという話になった。帰宅が同じ方向である譲治君に白羽の矢が立った。あまりに二人の仲がいいので、同僚たちが気を利かせた部分もある。ちょっとからかってどうなるか見てやろうという魂胆もあった。

 譲治君は一旦はその提案を断った。心の中で、危険だというサインが出ていたのである。しかし上司にまで説得されれば、彼も従うしかなかった。もっとも、本気で断るつもりもなかったのである。心中は荒波に漂う小舟のように揺れた。

 二人を乗せたタクシーは、そのままホテルに直行した。

 罪は罪として、彼としてはこれくらい言い訳の豊富にできる犯罪はなかった。ほとんど彼の意志で事が動いたのではないと断言したかった。しかしどんなに言い分があっても、奥さんの玲子さんは決して許さないことも痛いほどわかっていた。彼は証拠が残らぬよう細心の注意を払い、こと匂いについては一番警戒した。二次会にカラオケに連れて行かれたことにして、わざわざ、煙草を吸う人がそこで一緒にいたことを演出するために、自分は吸わないのに煙草を買って火を点け、煙をスーツに浴びせた。

 それでも直感の鋭い玲子さんのことだから、事が露見するのではとひやひやしたが、驚いたことに、玲子さんはいつまで経っても浮気の事実に気づかなかった。あるいは気づかないふりかも知れないが、いやいや、そんな器用な女ではない、と思い直した。彼が必死に言い訳を並べ立てる機会は、ついに来なかった。それはそれで、彼はなんとなく不安であった。

 ときおり玲子さんにじっと顔を覗きこまれ、「何考えてるの」と訊かれることがあった。以前にはなかったことのように思われるので、彼は内心どぎまぎしながら、表情だけは平然として「別に、何も」と答えた。「ふうん」と言いながら、玲子さんはなおもじっと彼を見つめるのだった。

 

 譲治君が本当に自分の生き方を変えたのは、リース会社を辞めたい、と思い始めた梅雨の始まりであった。仕事が上手くいかず、取引先を二軒も失い、上司にこっぴどく叱られた。不景気のせいにするなと言われた。しかしどう考えても不景気とデフレによる価格破壊のせいとしか思えなかった。そういう愚痴を同僚にこぼしたら、同僚が上司に告げ口し、彼に対する上司の対応は一層冷ややかになった。事務の女の子はとっくの昔に仕事を辞めていた。それも譲治君のせいだという噂が立っていることを、彼は何となく肌で感じていた。職場はまったく居心地が悪かった。家に帰ったところで、どうしても落ち着かない自分がいた。彼は自暴自棄になりつつあった。

 その日は朝から土砂降りであった。いつもより早く宵闇が街に落ちた。幼稚園に理奈ちゃんを迎えに行き、帰る途中だった玲子さんの軽自動車が、交差点で赤信号を無視して突入してきたトラックにスクラップのように踏みつぶされ、母子ともに命を失ったということを、彼は仕事帰りに立ち寄ったパチンコ店で、スマートフォンに呼び出されてから知った。

 遺体の身元確認のため、大学病院に至急来るよう告げられた。

 譲治君はスマートフォンを耳に当てたまま、椅子をひっくり返し、パチンコ台にぶつかりながら立ち上がった。銀玉が床にこぼれ、周囲から野次が飛んだ。

 絶対に赤の他人だ、と彼は思った。絶対に、身元を勘違いした電話だ。玲子と理奈のはずがない。そんなはずがない。

 そう心の中で何度も唱えながら、彼は大音量で電子音の飛び交う通路をふらふらと歩き、店を出た。なんだか慌てれば、電話の内容が事実になりそうで怖かった。しかし夜の街に出た途端、人が変わったかのように、大慌てでタクシーを探した。今度は、急いで病院に行けば、たとえそれが自分の妻と子供であっても、警察の言い分とは違い、実はまだ息があって、自分が一声かければ蘇生してくれそうな気がしたのだ。通りでタクシーを呼び止めていたサラリーマンに飛びかかるようにして縋りつき、「すみません、妻子が交通事故にあったんです」と言うと、返事も待たず、彼を押しのけてタクシーに乗りこんだ。

 「お客さん、割り込みは困りますよ」

 運転手は不機嫌な顔をして振り向いた。

 「大学病院へ。大学病院へすぐさま行ってくれ。妻子が死んだんだ」

 譲治君は運転席の背もたれを拳で叩いて叫んだ。

 「え? 死んだ?」

 「早く行かないと死ぬんだ。早く、大至急で車を飛ばしてくれ」

 「え? まだ死んでないんですか? どっちなんですか?」

 「早くしてくれ。間に合わないと、お前が殺したことになるぞ」

 運転手はその声に尋常ならぬものを感じ、車を発進させた。

 「いったい何があったんです」

 運転手の問いを無視し、車窓を睨んでいた譲治君は、信号が赤で車が停車すると、再び運転席の背もたれを、今度は両手で激しく叩いた。

 「早くしてくれ。頼むから早くしてくれ。俺が殺したことになる」

 「はあ?」

 運転手はますます混乱したが、こんな情緒不安定な客は早く病院に降ろしてしまおうと、水飛沫を立てて車を急がせた。

 その大学病院は、譲治君も何度か利用したことがあった。しかし今まで存在にすら気づかなかった部屋に彼は通された。入室するとき、布巾のようなものを白衣の男から手渡され、口にあてがってください、と言われた。

 部屋は広かった。青白い照明に天井から隅々まで照らされ、どこにも影を作ることを許さないかのようであった。ひんやりと寒気を感じた。部屋の真ん中に白いベッドが二台並べてあり、それぞれの上に白いシーツが盛り上がっていた。

 譲治君は逃げ出したい衝動に駆られた。顔なんて見なくていいから、すぐにでもこの二体を焼却して、肉も血もない白骨にして欲しいと思った。しかし同時に、どうしても自分は見なければいけないのだ、これが夫婦であり父親であり家族であった者のつとめなのだ、と自分に強く言い聞かせた。

 彼は壁に手をつき、自分の体を支えた。そんな部屋の端に彼は佇んでいた。

 「身元確認をお願いします」

 付き添ってきた警察官がそう呟いた。白衣を着た男が顔の部分の布をめくった。

 おお、おお、と彼は呻いた。こんな風に自分は呻くということを彼は初めて知った。

 白衣の男はもう一台のベッドの布もめくってみせた。

 おおお、と彼はまた部屋に反響するほどの大声で呻いた。

 二体とも血まみれだった。玲子さんだった遺体は顔が潰れて形を成してなかった。理奈ちゃんの遺体は額から顎にかけてざっくりと縦に切り口が開いていた。どちらも作りかけの粘土細工が床に叩きつけられたかのような顔をしていた。そしてどちらも、何かをひどく恨むように眼球が飛び出ていた。

 警察官に抱きかかえられても、彼は容易に立ち上がろうとしなかった。

 「ご家族にまちがいありませんか」

 警察官の問いに、彼は気がふれたように首を縦に振った。

 「私が殺しました。私が二人を殺しました」

 「ご主人、何を言ってるんですか」

 「私です。私が悪かったんです。全部私のせいなんです」

 再び白い布の掛けられた遺体を凝視しながら、彼は何度も叫んだ。

 「私が二人を殺したんです」

 

 

 矢野譲治君が仕事に復帰し、日常生活を取り戻すのには、半年あまりを必要とした。その後の彼はまったく人間が変わったようであった。物静かになり、口にする言葉は重かった。言い訳じみたことはもちろん、二度と口にしなくなった。それについてあるとき、新しい上司から、幾分か敬意をこめて指摘されたことがある。お前は決して言い訳しないな、と。彼はしばらく考えこんでから、言い訳をする相手がいなくなったんです、と答えた。

(おわり) 

 

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マネキンたちの憂い

2017年09月18日 | 短編

 

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マネキン1「ねえ、あたしたち、いつまでこうやって外を眺めてなきゃいけないの」

マネキン2「知らないわよ」

マネキン1「もううんざりなんだけど。こんなさびれた街のダサい格好の人たちをずっと眺めていたら、気が狂いそうだわ」

マネキン2「勝手に気が狂いなさいよ」

マネキン1「ねえ」

マネキン2「うるさいわね。ただでさえミンクのコート着せられて暑苦しくてしょうがないのよ。あんたの愚痴なんか聞いてたらこっちがいかれそうだわ」

マネキン1「あたしだってカシミア着せられてんのよ。ねえ、こんな季節外れの服いつまで着てなきゃいけないの」

マネキン2「仕方ないじゃない。このビルが取り壊されるまででしょ」

マネキン1「どうしてそんなに待たなきゃいけないのよ。夕方ちょっと着替えさせてくれれば済む話じゃない」

マネキン2「やだ、あんたもしかしてまだ気付いてないの」

マネキン1「え、何が」

マネキン2「うちの店、とっくの昔に潰れてんのよ」

マネキン1「え! うそ!」

マネキン2「やだ、前も話したじゃない。あんた、マネキン程度の脳みそしかないから困るわね。うちの社長、経営破たんで十年も前に店の後始末もせずに夜逃げしたのよ」

マネキン1「そうなの? うそ、聞いてないわ。だから年中同じ服着せられてるの?」

マネキン2「あんたがダサいって言った街の人たち、彼らが着てる服の方が、最近のトレンドなのよ。あたしたちはバブルの名残り。今じゃ誰もこんな肩パットの入った服なんか着てないでしょ」

マネキン1「うそ。うそ。じゃああたしたち、誰も来るはずのない店で、何年もずっとこうして外を眺めながら、誰かが来るのを待ってたわけ?」

マネキン2「そういうこと」

マネキン1「うそ。ショック。あたし、自殺したくなる」

マネキン2「自殺できてたら、十年前にあたしがしてるわよ。できないからいつまでもこうしてアホみたいに飾られてんじゃない。あたしたちはこうして、エレガントなポーズのままで、街がどんどんさびれていくのを、一番さびれた場所から見守り続けるってわけ」

マネキン1「どうして? どうして街はさびれちゃったの? 昔はもっとにぎわってたじゃない」

マネキン2「知らないわよ、動ける人たちのやることなんて。動けるんだから何でもできそうな感じがするけど、どうだろ。へたに動けるから、みんなこの街を出て行っちゃうんじゃない」

マネキン1「動ける人たちもそんなに脳みそがないのね」

マネキン2「そうよ。そういうことよ。ようやくわかってきたみたいね。ときどきあたしたちの方を見てさ、なつかしそうな顔して去っていく人いるでしょ。何がそんなに忙しいんだか知らないけど、ちょっと立ち止まるくらいがせいぜいで、昔に戻ることは勇気がなくてできないみたいね」

マネキン1「そっかあ、それと比べたら、あたしたちもそんなに不幸じゃないわね」

マネキン2「そう思ったら、そのこと、しっかりあんたのちっぽけな脳みそに叩き込んでおきなさい。忘れたころにまた思い出さしてあげるわ」

マネキン1「あーあ、あたし、昔はもっと美人だったわ」

マネキン2「今と大して変わんないから安心しなさい。あたしたちは幸福な方よ。動ける人たちは、昔の暮らしに戻りたくない癖に、容姿だけは昔に戻りたくてしょうがないんだから」

マネキン1「動ける人たちって、ほんとにお馬鹿さんばかりなのね」

マネキン2「あたしたちはそのお馬鹿さんたちを真似て作られたのよ」

マネキン1「じゃあやっぱり不幸だわ」

マネキン2「不幸で結構。動けないだけまだましよ」

マネキン1「そうなのかも」

マネキン2「そういうこと」

 

 

(おわり)

 

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読み切り短編  『幻視(げんし)』

2017年08月06日 | 短編

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 休日を利用して、書き直しをした。家族に読み聞かせてみたら、いろいろ手を入れる必要に気付いたからである。読み終えたときの家族の沈黙が、何よりも参考になった。寛容なる読者の再読を乞う。 

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幻視

 

 

 地中海は夏の日差しをまともに受けて腐乱した魚のようにぎらぎらと輝いていた。高く切り立った海岸沿いに蛇行する道を、赤いアルファロメオが疾走した。そのはるか上空を、一羽の白いユリカモメがゆったりと舞っていた。海も崖も空も、誰かの描いた空想画のように壮大で鮮明であった。後部座席のデイジーは車窓を全開にして顔を外に突き出し、その小さな胸一杯に風を吸い込んだ。

 「ユリカモメになった気分!」

 「危ないから首を引っ込めなさい、デイジー」派手な金縁のサングラスを少しだけずらして、助手席からロレンツィオ夫人が娘に注意した。「あなたのユリカモメとやらに、首をくわえて持っていかれるわよ」

 「大丈夫よ、友だちだから!」

 「母さんの言うことが聞けないの、デイジー。危ないから首を引っ込めなさい」

 デイジーは頬を膨らませ、答えない。首元に結んだ臙脂色のリボンがはためく。

 「よしきた、お嬢さん」

 運転席でハンドルを握る父親が、視線は前方に向けたまま口を挟んできた。日に焼けた筋肉質の太い腕を誇らしげに肩から見せ、細いサングラスをかけている。「十数える間にその可愛い首を引っ込めるんだ。さもないと今日のピクニックは中止だ」

 父親が八を数えたところでデイジーは上半身を車内に戻した。膨らんだ頬をさらに赤く膨らませながら。

 父親は口笛を吹いた。

 デイジーは必要もないのに車窓まで閉じて、まるで海と永遠に決別するかのように小さな体を後部座席に寝転がした。つまんない。彼女は不満げに目をぎゅっと閉じた。

 その瞬間、強烈な光景が、まるで夢の中のように鮮明に浮かび上がった。

 きゃっ、と叫んで彼女は目を開けた。

 それは、急カーブを曲がり切れずにガードレールを突き破り、その衝撃でボンネットを大きく歪めながら、なおも十メートル下の深緑色の海原へと飛び込んでいく、まさにこの赤いアルファロメオだった。それを彼女は見たのだった。目を閉じていたにもかかわらず。

 幼いデイジーが脈絡もなく奇声を発するのは日常茶飯事だったので、ロレンツィオ夫妻はどちらも振り向きもしなかった。

 デイジーは一人で体を震わせた。

 なんなの、さっきの光景は。

 再び目を閉じると、心象風景も再び始まった。今度は海に落ちる光景ではない。まさにこの車がスピードを上げ、ガードレールを突き破った例の急カーブに差し掛かろうとしている。先ほどより少し手前の景色である。だがあの急カーブはすぐそこに迫ってきていた。悲痛な叫びのようなブレーキ音が脳裏に鳴り響いたところで、デイジーは目を開けた。汗びっしょりだった。

 「これは────これは、これから起こる風景だわ!」

 「どうしたの、デイジー」母親がおざなりな声をかけた。

 デイジーは目を閉じるのが怖かったが、白昼夢の意味を知りたい気持ちの方が優った。

 彼女はこわごわ三たび目を閉じた。さらに場面はさかのぼった。車は海辺から少し逸れた、黄色い野菊の揺れるなだらかな下り道を走っていた。はるか上空にユリカモメ。そのまま目をつぶっていると、場面は転換し、車窓から首を突き出し、臙脂色のリボンをはためかせる自分自身の姿になった。

 彼女は目を見開いた。車は丘の頂上に差し掛かっていた。前方の下り坂には黄色い野菊が咲き乱れている。デイジーは絶望的な確信と共に、金切り声を上げて父親の肩を揺すった。

 「停めて! 父さん、停めて! お願いだから、この先を行っちゃ駄目!」

 「おい、何だ、悪ふざけもいい加減にしろ、危ないぞデイジー」

 「危ないの、このまま進むと危ないの!」

 「どうしたの、急に。おやめなさい、デイジー。おトイレに行きたくなったの?」と母親。

 「違うの、このまま進むと海におっこっちゃうの。お願いだから停めて、父さん!」

 娘が執拗に喚き散らすので、ついにロレンツィオさんは車を停めた。溜息をつき、日に焼けた太い腕を背もたれに乗せて後部座席を振り返った。

 「さあ、どういうことだ、デイジー。場合によっちゃおしおきだぞ」

 「見えたの。この先の、カーブで曲がり切れなくて、車ごと海に落ちていくのが見えたの」

 「何だって?」

 「この道なの。この車なの。父さんと母さんも乗ってるの。私も乗ってるの。この先で、この車ごと崖から落ちちゃうの」

 夫婦は互いの顔を見合わせた。

 まったく、この子の妄想癖にも困ったものだわ、という表情で夫人が首を横に振った。夫は太い腕を組み、しばらく思案していたが、サングラスをかけた顔を再び後部座席に向けた。

 「それは、かなりのスピードを出していたのか?」

 「そう、そうよ。そうよ」

 「わかった、デイジー。じゃあこうしよう。父さんは、これからスピードを落として、亀さんのようにゆっくりと運転する。お前が予言したその危険なカーブとやらを過ぎるまでね。それから、スピードをもとに戻す。父さんの運転技術は信用してるね?」

 デイジーは汗だくの顔でその提案を聞いていたが、ちょっと不安げながらも頷いてみせた。

 「うん。だったら大丈夫だと思う。ゆっくり運転してね」

 「ああ、亀さんのようにな」

 「亀さんのようによ」

 車は再び動き出した。

 ロレンツィオ夫人がバッグからコンパクトを出して口元を確かめながら、うんざりした声で言った。「デイジー、あなたのせいで日暮れに到着しそうだわ」

 亀のように、とまでは行かないが、先ほどまでよりはずっと速度を落としてアルファロメオは走行した。要は────要は、その問題のカーブのところだけスピードを落とせばいいんだろ、とロレンツィオさんが思い直してからは、速度も少しずつ増した。「もっとゆっくり、ね、もっとゆっくりお願い」という後部座席からの幼い懇願がなければ、彼は元通りの速度で走ったであろう。

 車は黄色い野菊の揺れる下り坂を抜け、再び切り立った崖の道に出た。ユリカモメが前方の空高いところで旋回している。 

 「あっ、ここよ! ここ!」

 娘の叫びがあまりに真剣なので、さすがのロレンツィオさんも速度をぐっと落とし、そのカーブを曲がった。なるほどそれはほとんど鋭角に近い急カーブであり、もしガードレールを突き破れば、命は到底ないと思われる絶壁であった。波の砕ける音がはるか下から聞こえた。

 アルファロメオは無事そのカーブを通り過ぎた。ユリカモメもいつの間にか見えなくなった。

 「さあ、これで安心したかい、未来予報士のお嬢ちゃん」

 心からの安堵の溜息をつき、デイジーはシートに身を沈めた。同時に自分の予測がやっぱり何の根拠もない妄想だった気がしてきて、恥ずかしさに少し顔を赤らめた。

 「うん、もう大丈夫。ごめんなさい。もう大丈夫だわ」

 「目を閉じて少し休みなさい。疲れたのよ、デイジー」

 夫人の勧めるがまま、デイジーはくたくたになった身を横たえて、目を閉じた。

 不思議な夢を見た。

 牧場のテラスで家族三人、ジェラートを食べている。半時ほど前、実際に立ち寄った牧場であることは明らかだった。その時、確かに、三人でジェラートを食べた。

 場面は変わり、家の庭先で花壇のポピーに水やりをしている自分がいた。ひらひらのスカートに水がびっしょりとかかり、母親の怒った声が聞こえた。

 二日ほど前の昼下がり、これも実際あった出来事であった。

 間違いなかった。記憶は未来から現在を駆け抜け、過去を遡っている。

 場面は次々と変わった。どれもこれも、かつて経験した場面であり、それもどんどん古い日付のものになった。場面の切り替えはさらに激しくなり、もはや幼いデイジーには何が何だかわからなくなった。

 思わず目を開けたら、車は猛スピードで、例の急なカーブに差し掛かろうとしていた。彼女は息を呑んだ。すでに先ほど、慎重に運転して通り過ぎたはずのカーブであった。前席の両親は何事もなかったかのように前を向いて沈黙している。空高くから悠然とこちらを見下ろす、一羽の白いユリカモメ。

 デイジーは死に物狂いで絶叫した。

 彼女の声に負けないほど甲高く、急ブレーキの音が鳴り響いた。

 

 (おわり)

 

 

 

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読み切り短編『エレベーター・トラップ』 

2017年06月25日 | 短編

以前書いたものを少し手直しして載せました。一度読んだことがあると思われたらそのせいです。

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(吉田こういち君の独り言) 保科さんが来た。まずいな。さっき会議でぼろかすに言ったばかりなのに。エレベーター、まだ来ないかな。怒ってるだろうな、俺のこと。会議中泣きそうだったもんな。それとも泣いたのかな? でもこの子が悪いんだよ。どんくさ過ぎるんだよ、やることすべてが。まだ来ないのかエレベーター。このエレベーターもどんくさいんだよな。うちの市役所はどんくさいもので満ちているな。どうしてこの子、いつも抱えきれないほどの書類を抱きしめているんだろう。そこから間違ってるんだけど。今どき両手に山盛りの書類なんて、能率の悪い仕事をしてますって白状してるようなもんじゃないか。でもまあ、ちょっと赤い顔して、一生懸命書類を抱えている姿がとっても似合うって言えば似合うんだけどな。そういうのが似合う子だ。おいおい、エレベーターのやつ、一階で寝込んでるんじゃないのか。あ、付箋紙が落ちた。拾ってやるか。

 

 「あ、あの、あの、すみません。ありがとうございます」

 「いいえ。先ほどはどうも」

 「あ、こちらこそいろいろ、あの、ご指導ありがとうございます」

 「ご指導ね。ご指導か。ご指導ついでだけど、ちょっと荷物多すぎない?」

 「あ、これですか、すみません。でもこれ全部必要な書類なんです」

 「へえ。付箋紙も一束必要なんだ」

 

(保科かおりさんの独り言) やな人。ほんとやな人。まだ私を攻撃し足らないのね。イヤミばっかり言って、にやにや笑って。いつもイヤミ言ってにやけてるんだから。私にばっかり。私に気があるのかしら。多分そうね。自分が格好いいと思ってるから、いじめてやったらむしろ自分に惚れるだろうくらいに思ってるのよ。おあいにく様。確かにちょっとは格好いいかもしれないけど、心が醜いんです。心が醜い人は駄目なんです。ほんと悔しい。そりゃ私がいけないんだけど、でもあんなに言うことないじゃない。そりゃ私はまだ仕事ができませんよ。無駄な動きが多いですよ。勘違いばっかりですよ、確かに。じゃあどうすりゃいいの? 脳ミソ取り出して洗浄すりゃいいの? エレベーター遅いなあ。あ、やっと来た。

 

 砂の噛む音を立ててエレベーターの厚い扉が開き、中からどやどやと四人の男が降りた。三人はスーツ姿で、一人はくたびれたジャンパーを着た浅黒い男である。みな、つまらぬ場所からつまらぬ場所へ移動するような表情をして去って行った。彼らをやり過ごしてから吉田君と保科さんがエレベーターに乗りこむと、他に乗る者は誰もいなかった。エレベーターの扉は再び砂の噛む音を立てて閉じた。

 

(吉田こういち君の独り言) おいおい、保科ちゃんと二人っきりかい。まいったな。気まずいでしょ、いくらなんでもこれは。なんだかこっちまで緊張してくるな。さっきの言い過ぎのお詫びにお茶にでも誘ってみるか。案外喜んだりして。でもお茶に誘っても絶対断るタイプだよな。

 

 「また付箋紙落ちそうだよ」

 「あ、大丈夫です。すみません」

 「ほらほら、ペンが落ちたよ」

 「あ、すみません、すみません。大丈夫です。自分で拾えます」

 「いいよ。かがまない方がいい。ほらまた付箋紙が落ちた」

 

(保科かおりさんの独り言) 笑われてる! 笑われてるわ! 悔しい。私が間抜けなのよ。私っていつでも間抜けなんだから。コアラみたいに荷物抱えこんで。でもそんなに笑うことないじゃん。吉田さん最低。人がうろたえるのを見て喜ぶなんて、人間として最低。四階まだ? このエレベーターも最低! あれ?

 

 鉄骨を二三本折るような音を立てて、エレベーターは急停止した。溜息のような音を漏らし、電灯もすべて消え、機械音が止んだ。扉が開くわけでもない。まるではるか昔から外界と隔たった空気を密かに保管してきた隔離倉庫のようであった。自分の指先も見えないほどの真っ暗闇に戸惑う若い男女を納め、エレベーターは固く沈黙した。  

 

 「どう・・・どうしちゃったんでしょうか」

 「真っ暗だね」

 「壊れたんですか」

 「停電かな」

 「やだ、どうしましょう」

 「さすが市役所のエレベーターだ。人を閉じ込めておいて、アナウンスの一つもない」

 「怖い」

 「大丈夫だよ。知らないけど」

 

                  沈黙。心なしか蒸し暑い。

 

 「保科さん」

 「あ、はい」

 「大丈夫だね」

 「はい。あ、やだ、いろいろ落としちゃった」

 「書類も落ちたね」

 「はい。大丈夫です。拾います」

 「今無理して拾わない方がいい。止めなさい。どうせ見えないよ。待っていれば、すぐ明かりが戻る」

 「あ、はい。でも」

       「保科さん」

             「はい」

                 「ここって、監視カメラがついてるのかな」

 「え? ええっと…何にも光ってないし、ついてないんじゃないでしょうか」

 「ついてないんだ。さすが、我らが市役所のエレベーターだ」

 「はい、市役所のエレベーターですから」

 

                 二人は暗闇の中でくすくすと笑い合った。

 

(吉田こういち君の独り言) おい、今がチャンスだろ? 今しかないだろ! 完璧なシチュエーションじゃないか。抱きしめてキスしてしまえ! 保科さん怒るかなあ。怒るだろうなあ。でも完璧にどさくさに紛れてってわけでもないんだけどな。監視カメラ、本当についてないのかなあ。

 

(保科かおりさんの独り言) どうしよう。危険すぎないこの状況? 吉田さんと暗い密室に二人きりなんて・・・。京子ちゃんに話したら羨ましがるかも知れないけど、私は・・・私は、どうしよう? もし不意に抱きしめられたりしたら! ばっかじゃない、私。私、どうかしてる。あ、もうやだ、全部落としちゃった。ここ、監視カメラないって本当?

 

 「保科さん」

 「はい」

 「君は、君のやり方でやればいい」

 「え?」

 

(吉田こういち君の独り言) 何言ってんだ俺?

 

 「保科さん」

 「は・・・はい」

 「全部落としたね」

 「あ、はい。見えましたか」

 「見えてないけどね。拾おう」

 「え、でも、見えません」

 「慎重に手で探れば、わかるよ」

 

 ・・・・・・・・・・・ 

 

 「これで書類は全部かな。ええと、手を出してごらん。そう。受け取ったね」

 「あ、あ、はい。ありがとうございます」

 「それからペンと、ペンは・・・もう一つ向こうに転がったような・・・あった、ペンは全部で三本だね?」

 「あ、はい」

 「書類を抱えたまま、丸めて突き出して。そう。ここに滑らせて入れるからね。落ちないようによろしく。まだ動かないで。それと・・・あった、付箋紙だ。これで全部だろう。これもここに入れておくからね」

 「あ、あの、ほんとに、ほんとにありがとうございます」

 「うん」

 

(吉田こういち君の独り言) さあ、どうする俺?

 

(保科かおりさんの独り言) やだ・・・私・・・どうしよう? 

 

 「保科さん」

 「はい」

 

 唐突に電気がついた。がくん、と揺れたかと思うと、エレベーターが再び昇り始めた。中にいた二人はよろめいたが、保科さんも今度は何一つ落とさなかった。一階分上昇したのち、ちん、とまるで何事もなかったかのように停車し、扉が開いた。扉の向こうでは、心配というよりは好奇の目を光らせたスーツ姿の男女たちが十人ほど、寄り集まって二人を迎え入れた。「おお、大丈夫だったか?」「君たち二人だけが閉じ込められたのか」「二人だけ?」「定員オーバーってわけじゃなかったんだ」「そんなわけないでしょう課長、そんなんだったら途中で止まりませんよ」「いやまあとにかくお疲れさん!」

          

 「助かったね」

 「・・・助かりました」

 「お疲れさま」

 「お疲れさまです」

 

 この話はここで終わる。こんなところで終わるのかと言われても、終わるのだから仕方ない。エレベーターを出た二人にその後も長く同僚たちから浴びせられた質問や野次や冷やかしの数々は、ここに記すほどのものではない。

 

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読み切り短編  『老婆』

2017年05月02日 | 短編

 

 新聞をめくる音がかさかさと鳴る。柱時計が午後二時を指す。

 摺ガラスから差し込む五月の陽射しは老婆のいる炬燵まで届かない。老婆はまるでそれだけが自分に残された最後の仕事でもあるかのように、新聞をめくっては読み、読んではめくり続けている。

 皺は深い。シミと相まって、火星の裏側のような不気味な様相を呈している。老眼鏡の上の落ち窪んだ眼窩と、そこに光るけち臭いほどに小さな瞳が、彼女の意志の頑なさを物語っている。

 老いて縮んだ我が身を丸ごと包めそうなくらい大きな新聞を、彼女は鼻先で一枚、また一枚とめくる。

 炬燵の端で猫が、にやあと鳴いた。

 老婆に劣らず老けた猫である。使い古したタワシのような毛並みをしている。老婆は猫の鳴き声も聞こえなかったように新聞をめくり続ける。

 半世紀前に夫に先立たれ、女手一つで息子二人を育て上げた。八十を過ぎてなお執念のように新聞に目を走らせる姿は一種荘厳でさえあるが、どれだけ新聞をめくっても、彼女の知りえないことはもちろんたくさんある。

 一つは、長男夫婦が自分の死んだ後、この家を取り壊して賃貸アパートにしようと目論んでいることである。赤茶けたトタン屋根の建物で、十坪ほどしかない。二十年前に煙草屋を閉めてからは、通りを行く車の排気ガスにただただ晒され続けてきた。老婆は長男夫婦と仲が悪い。彼らが自分に早く死んで欲しがっているであろうことくらいは先刻承知である。が、まさかすでに不動産屋に話をつけて、アパートの設計図まで仕上がっているとは思っていない。

 長男夫婦は川を挟んだ隣町に住む。事務機器を取り扱う専門店を営んでいるが、最近羽振りが悪い。おまけに長男がフィリピンパブに入れ込んでいる。よって手っ取り早く、家賃収入で将来の不足分を補おうと画策しているのである。

 「何しろおふくろは頑固だからな」長男は苦虫を噛み潰した顔で言う。「老人ホームに移れって言っても絶対聞かねえ。そっちの方が安全だし、家族も安心だからって説得するんだけどよ」

 「あなたが優しいからよ」長男の奥さんは少し亭主を見下して言い返す。「そりゃお母さんは今のままがいいでしょうに。あなたはいいわよ。フィリピンで憂さ晴らししてさ。二日おきに掃除に行くのも、病院の送り迎えも、あたしだし。お母さん、嫁にはそうしてもらって当然だくらいに思ってらっしゃるのね」

 「俺らがこれだけ尽くしてんのにな」長男は、自分も責められたことはまったく無視して言葉を続けた。「感謝の一言もねえ。それが腹立つ。それでいざ死ぬときによ、正輝のやつに土地と家を譲る、何て言い出しかねんぞ。とんでもねえばばあだよ」

 「あなた」奥さんは真顔になった。「それだけは嫌よ。それだけは絶対嫌。どうしてこんなに面倒見てあげてさ、不機嫌な顔されても我慢して耐えてるのに、どうして肝心なとこだけ正輝さんに横取りされなきゃいけないの」

 正輝さんというのは次男である。ちなみに老婆は、この次男が目下大変な状況にあることを知らない。内向的で陰湿な長男と違い、どちらかというと自由奔放でからりとした性格の次男は、高校を中退後、ミュージシャンを目指すと言って上京した。一年目で結婚し、二年目で夢を諦め、シェフ見習いとして働き始めて今に至る。たまにしか帰省しないこともあり、老婆はどちらかというと長男より次男の方を気にかけてきた。

 しかし正輝さんは大都会の真ん中で、現在、これ以上はなかなかお目にかかれないほどの不幸のどん底にいる。スナックとキャバクラを梯子して、酔った勢いで調子に乗って口説き落とした相手がヤクザの女であることが露見した。結果ヤクザにつけ狙われる羽目になった。妻にも浮気がばれ、彼女には食器をほとんど割られた上で離縁された。職場にも二週間顔を出していない。おそらく順当に行けば遠からず職を失い、この世界に居場所も失い、最後は命まで失うだろうと、彼自身確信に近いものを感じている。

 追っ手から居場所を隠す必要に迫られた彼は、安ホテルと二十四時間営業のインターネットカフェを転々としている。げっそりと憔悴し、無精ひげに覆われ、目は泣き腫らして赤い。

 地元に帰り、母親に会いたい、と彼は思う。できれば人生をやり直したい、とも。だがそれを相談できる相手はいない。

 そんな次男の苦境を、老婆はつゆほども知らない。もっとも、このことは兄の直輝さん(長男の名前である)もあずかり知らないことであるが。

 猫がまた鳴いた。

 ついに老婆は、すべての紙面を読み尽くした。新聞を閉じる。冷めた茶を啜り、干からびたナスの粕漬を齧る。もう一口茶を啜ると、新聞を開き、再び活字を読み始めた。

 彼女は日に三回、新聞を読むのである。

 かさり、と一枚めくられる。摺ガラス越しの陽射しを浴びて埃が舞う。炬燵布団の上で、鳴くのを諦めた猫が身を丸める。

 

 さすがにここまで読み進めた読者諸氏からは、なぜかくも退屈な老人の話をわざわざ取り上げたのかと叱責の声が聞こえてきそうだが、こちらにも言い分がある。社会の片隅に生息するこの老婆が、筆者には現代の何かを象徴している気がしてならないのだ。確かに彼女は、現代人の現代的日常と言えるものから一番ほど遠い存在であろう。が同時に、我々と彼女はとても似通ったところがありはしないか? インターネットで絶えず最新情報を得ることばかり忙しくて、身内や隣人との心の交流すらままならない我々と、新聞を食い入るように見入るこの老婆は、いったいどこが違うのだろうか?──────もちろん大きく違う。老婆は汚い猫を飼っているが、我々はふつう飼わない。

 あるいは。あるいはこの老婆の正体が、ひょっとして神様だとすると、どうだろうか? まったくあり得ない話だろうか? 神様は結局、知るだけで何もしてくれないのである──────もちろん、神様は老婆ではない。神様は三度も同じ新聞を読まない。

 

 そのとき玄関のガラス戸がガタガタと鳴った。

 豪快に襖が開く。

 「ばっちゃ!」

 元気な声を張り上げて、孫娘が姿を現した。長男夫婦の次女のみよちゃんである。今年小学四年生になった。白と緑の横じまのセーターに海老茶のスカート。背中には彼女と同じくらいの体積があるのではと思われる大きな赤いランドセル。

 「何しに来た!」

 上目遣いに孫の姿を認めると、老婆はしわがれ声を上げた。

 みよちゃんはそれには答えず、老婆の向かいの炬燵布団に足を突っ込んだ。

 「また新聞ばっかり読んで!」

 「学校は終わったか?」

 「今日たいくの時間に、ドッチボールした。みよ、最後まで残ったよ」

 「ドッチボールって何だい」

 「ばっちゃ、ドッチボール知らんの?」

 「せんべえ食うか」

 「おまんじゅう食べたい!」

 「せんべえ食え」

 「五郎にえさあげた?」

 五郎と呼ばれるタワシ色の猫は、みよちゃんに撫でられて咽喉を鳴らした。

 老婆はよいこらしょ、と炬燵から腰を上げた。孫娘に茶を淹れるのに、保温ポットのお湯が足らなかったからである。立ち上がっても大して丈が変わらないほどに背が曲がっている。

 「ばっちゃ、座って! お湯は自分で入れる」

 「いいからせんべえ食え」

 そう言いながらも老婆は孫娘にポットを手渡すと、また炬燵に座り込んだ。

 隣の台所からみよちゃんの声が飛ぶ。

 「ねえ、五郎にえさあげた?」

 老婆は炬燵机の上を片付けるのに余念がない。

 

 さすがにいい加減にしたまえ。何ゆえ、かくも食い違ってばかりの年寄りと子供の会話など聞かされねばならんのか、と読者諸氏はほとんど憤慨しながら詰問されるであろう。筆者は冷や汗を拭いながら、恐る恐る弁明する──────もちろん、私はそう思わないからだ、と。

 

 台所で薬缶から湯気が噴き出す音に重ねて、再びみよちゃんの声。

 「ねえばっちゃ、五郎にえさ!」

 「五郎に? えさ? ああ、あげた!」

 「あげた? ほんとに?」

 「あげた!」

 「いつあげた?」

 「あげた! ここ来てせんべえ食え」

 「いつえさあげた?」

 「あげた!」

 「あげた?」

 「あげた!」 

 

 

 (おわり)

 

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読み切り短編  『復讐』 削除

2017年04月18日 | 短編

 

 ※いつも拙文に目を通していただく先輩に、「前半はよかったが後半はありゃ継ぎ足しだな。駄目だ」と言われた。確かに、後半は継ぎ足した。継ぎ足さないと仕上がらないから継ぎ足したのだが、それにしても粗雑だったかもしれない。急いで仕上げたことも否めない。もう少し前半のトーンのまま、深く掘り下げるべき話題かもしれない。折を見てじっくりと書き直そうと思うので、いったんブログから削除しました。またいつの日かお目にかかる日があれば、 ご一読を。

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短編 『口紅』

2017年03月06日 | 短編

 

 加賀晶子さんは生来無口な人である。どれだけ無口かと言えば、彼女が事務をしていた私立高校の職員による忘年会で、最初に口にした「お茶でいいです」という返答と、最後に答えた「いえ、帰ります」しか、その場にいた誰もが耳にしなかったというくらい無口である。二次会でそのことが話題になった。その日、一次会は二時間続き、酔っぱらった英語教師がチロリアンダンスを披露し、酒癖の悪い国語教師が教頭に絡んでみんなに押し戻され、女性の職員たちは最近の保護者の質の低下に対する不満と、市役所の近くに新しくできたケーキ屋の話で盛り上がった。しかしその間ずっと、加賀晶子さんはどの話の輪にも加わらず、自分の席でチンジャオロースをつついていたらしい。

 「暗い。結構好みの顔なんだけど、暗すぎる」というのが、英語教師が下した評価である。

 「そりゃあの人、仕事は確かにできるけどね」と、もう一人の事務員である孝子さんはボールペンを指先に挟んで振りながら、嘆息して言った。「でもさ、いちんち黙ーって誰とも話ししなかったら、そりゃ仕事もはかどるでしょ」

 どうして彼女がそんなにも非社交的な人間になったかについては、おそらく彼女の祖母の友人であり家族同様の付き合いをしている「松っちゃん」の分析が秀逸であろう。

 「あの家庭がみんな陰気だからね。ああいうのって家庭的影響が大きいから。体が弱かったのもあるかな。生まれたときからそう。あたしあの子が生まれるとき、ずっと立ち会ってたんだけどさ、お腹ン中から出てきたときも、なんで生まれてきたんだって顔できょとんとして、泣きもしないのよ。なんか、これから生きてやるぞっていう気迫みたいなのが全然伝わってこないの。生まれたばかりってのによ。あのー、もしできればお母さんのお腹ン中に帰っていいですか、て感じ。は!は! それと、あたしが思うに、やっぱ名前だね。名前。おんなじ字を書いてもさ、アキコって読ませることもあるでしょ。それだったらちょっとは明るい性格になったんだけど。ショウコじゃ、いくら何でも地味よねえ」

 加賀晶子さんは地元の別の公立高校を出てすぐ、この高校の事務員を十年以上勤め、三十代に足が掛かってもいまだ独身である。浮いた噂も見事なまでにない。そもそも、彼女は化粧っ気がないことで有名である。初出勤から三日目の朝、校長から命を受けた孝子さんがさりげなく彼女を別室に呼び、社会人のたしなみとしての最低限の化粧をやんわりと教え諭したくらいである。

 「ね、わかるよね。別にどうってことないことだけどさ、まあ、高校生と区別がつくぐらいにはしとかないとね」

 翌日から晶子さんは言いつけを守り、確かに顔を白く塗ってきた。が、それにより、ただただ「幽霊度が増した」というのが、女性職員たちの一致した見解であった。

 彼女は、幸せも、ときめきも欲していないように周囲には思われた。ところが三十二歳の春、突如として彼女は恋をした。

 相手は高校に出入りしていたテキスト販売を専門とする業者で、四十代半ばでバツイチの男である。いつも明るく冗談を振りまきながら現れる彼が、どうして無口で陰気な彼女に惹かれるのか不思議であった。より一層不思議だったのは、それまで男も女もポストイットの付箋紙くらいにしか感じていなかった晶子さんが、その男にだけは隠しきれない高揚感を見せたことである。テキストの見本を段ボール箱一杯に詰め込んで彼が職員室に現れるたび、晶子さんは慌てて立ち上がり、用もないのにコピー機のところに駆けつけたり、他人の机の書類を肘に当てて落としたり、ゴミ箱を蹴飛ばして平謝りしたりした。また男の方も、そういう晶子さんを、伝票作業の終わる間じっと見つめていた。そして、彼女がほとんど何も受け答えしないのを承知していながら、毎朝自分のアパートのベランダに来る猫は「おはよう」と鳴くのだ、といったくだらない話を聞かせたりした。

 二人が互いに惹かれあっているのは、誰も、どちら側にもはっきり確かめたことがないのに、職員室内の周知の事実となった。

 「加賀さんはいい人ですからね」富堅康則校長はその話題になると、嬉しそうに節太い手を揉みしだいて答えるのだった。「ああいういい人には、いつか必ず幸せが訪れると、そう思ってましたよ。ええ。いろいろ言う人はいましたよ。でもあの人だって、感情がないわけじゃない。悲しみも喜びも知っている。それが人間です。加賀さんも、つまるところ、一人の人間だったということですよ」

 事務員の孝子さんはボールペンを唇に当て、神妙につぶやいた。「こうなったら、せめて化粧の仕方を覚えなきゃね」

 英語教師は、酔ってもいないのにチロリアンダンスを踊った。

 大した進学校でもなく全国的に名が知られているわけでもないその私立高校の職員室を、連日熱狂させた恋の行方は、始まりと同様、唐突に終わった。

 小雨混じりの風に若葉が揺さぶられる朝、一カ月前に時を逆戻りさせたかのような暗い顔で出勤してきた晶子さんに、万事につけ他人事に敏感な孝子さんはすぐさま異変を感じとった。翌日の昼前に現れた例の卸会社の社員が、禿げ頭に眼鏡という、まったく違う人物に入れ替わっていたことで、それは決定的となった。教師の一人が禿げ頭に、前任者はどうなったのか問い質したところ、都合により担当地域が変わったとの由。万事につけ探偵もどきの野次馬根性を正義感のように胸に抱く孝子さんが、職員一同の無言の期待を背に受け、昼休みの時間に晶子さんをこんこんと問い詰めたところ、三十分もの粘り強い誘導尋問の挙句、彼に電話でデートに誘われたこと、晶子さんがそれを断ったこと、その理由が、相手が肉体関係を迫ったからということだけが、事実として判明した。最後の一つは、孝子さんの強引な問い質し方に多少問題があり、(「もしかしてあんた、彼に求められたんじゃない? 体をさ。ねえ、そんなことを臭わせるような発言、彼がしたんじゃない? 別に構わないと思うけどさ、それくらい。でもそうでしょ? え? はっきり言いなさいよ。そうじゃないの? 違うの?」)よって、まったくの事実とするには疑問が残るところではある。

 いずれにせよ、祭りは終わった。日常が戻り、職員室の面々は、晶子さんに対する興味を以前と同様失った。彼女には女性器がない、という悪質な噂が一時立ったが、さすがに悪質過ぎてすぐに立ち消えになった。加賀晶子さんは相変わらず青白い薄化粧をして、たとえその化粧を取り去ってもやっぱり青白いだろうと思われるような陰気な表情で、電卓を叩き続けている。

 だが、誰も知らない事実であるが、晶子さんは赤い口紅を密かに自宅の机の引き出しに仕舞っているのであった。それは目もくらむような鮮やかな薔薇色であり、高校二年の夏、親にも知られることなく密かに購入したものである。いつかそれをつける日が来ることを漠然と願いながら、彼女は十年余りを過ごしてきた。その色が自分によく似合い、それを一筋口元に引くだけで、周りをざわつかせるに十分なほど華やかな美人に自分が変貌することを、彼女は承知していた。何度か鏡の前で試してみたから確かである。ただ、晶子さんは自分の性格に丸で自信がなかった。自分がそばにいることで男の人を楽しませる存在になりえるとは、到底思えなかった。無目的に口紅をつけ、男を呼んでいるように思われたくもなかった。ただ、幸せは欲しかった。それで、自分に対しとても理解力のある、魅力的な男性が現れるのをずっと待った。

 テキスト販売の業者の男は、自分にない明るさを持ち、なおかつ自分の暗さを否定も毛嫌いもせず、親しげに話しかけてくれることで、かつてない好感を彼女に抱かせた。結構年上であるがそれなりに男前であり、バツイチと聞いても、むしろ相手にもペナルティがある方がペナルティだらけの自分としては付き合いやすいと思ったくらいである。薔薇色の口紅もついに出番が来た気がした。しかし晶子さんは慎重であった。先走って口紅を塗り、その上で捨てられ、傷つけられるのは耐えがたかった。晶子さんは内に秘めたプライドの高い人でもあった。男がどれほどの人間かを見極めるまでは、あえて口紅を引かずに待とうと決意した。口紅を引かなければ自分を一人前の女として認めてもらえないのも何だか癪(しゃく)であった。大事な恋のために口紅をとっておきながら、恋のために口紅を利用することをためらう自分がいた。相矛盾する気持ちにさいなまれながら、晶子さんは彼が告白してくるのをどきどきして待った。

 しかし、せがまれて教えた携帯電話の番号に彼が深夜になって電話してきて、「君は人間付き合いに障害があるようだけど、自分はいろいろ知っているからいろいろ楽しいことを教えてあげるよ」という口調でデートを申し込んできたとき、彼女の熱はあっさりと冷めてしまった。形勢が一変したことを悟った彼が、何とかなだめすかそうと言葉を尽くすのに対し、「嫌です」と人生初と思われるほどはっきりと断りの言葉を発すると、彼女は電話を切った。

 携帯を机の上においてから、彼女は小さな卓上鏡を五分間ほど見つめた。それから机の端の財布に手を伸ばし、中から三枚ほどのレシートを取り出すと、電卓を叩き、家計簿にその日の出費を記載した。いつもの日課である。家計簿を引き出しに仕舞う際、メタリックの光沢を放つ口紅が目に留まったが、最後まで使わなくてよかったと彼女は心から思った。

 

 

 彼女は今日も私立高校の職員室で、青白い顔をして仕事をこなしている。いつの日か、彼女の唇に薔薇色の口紅を引かせる男が現れるかも知れない。しかしその日がついに来ないかも知れないと、彼女もそろそろ感じ始めている。

 

 (おわり)

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読み切り短編:  『ミッドナイト・ドリア』

2017年01月23日 | 短編

 

 

 最近は洗濯機すらろくすっぽ潜ってなかろうと思われるほど黄ばんでくたびれたパジャマに素足姿の少年は、ダイニングルームに入るとも入らぬとも決しかねる様子で、入口の壁に両手を這わせた。その姿はまるで母親に抱きつく赤子のようにも見えたが、十歳の少年の関心は、決して壁にあるわけではなかった。

 部屋は、北洋漁業船の船室のように暗く冷えきっていた。テーブルに所狭しと散らかったビニル袋や、食べかけの惣菜を載せたトレー、潰れた空き缶、割り箸を突っ込んだままのカップ麺の空の容器などが、この家にここ一か月間女性の手が全く入っていないことを物語っていた。

 暗がりで虚ろに光る二つの目が、壁際の少年を捉えた。

 グラスがテーブルに当たる鈍い音。

 「なんだ。勇太か」

 度重なるアルコール摂取で潰れた声である。

 壁を這う少年の手に力がこもる。まるで、それによって自分の身を守ろうとでもするかのように。だが視線は、先ほどよりずっと弱々しく床に落ちた。

 「どうした」

 少年は壁から離れた。彼は片手で、粘土でも捏ねるように顔を撫で回す。

 答えはない。

 「もう────もう遅い時刻だろ。何時だ? え? おい、もう十二時近いじゃないか。おい。もう十二時になるぞ。明日も学校だろ。早く、早く寝ろ」

 「おなかすいた」

 「何だって?」

 少年の声はあまりに小さかったので、父親は聞き取ることができなかった。彼は組んでいた脚を解き、テーブルに突いていた肘を上げ、一人息子の方に身を屈めた。それだけの動作をするのにも、ひどく億劫そうであった。

 廊下から差し込む明かりが、男の顔を照らした。瞼や頬が腫れぼったく膨らみ、ぬめぬめと脂ぎっている。泥酔しているのが一見してわかる。

 「おい、何て言った?」

 「おなかすいた」

 「おなかすいた? おなかすいただと。え? おなかがすいたのか。ほれ、言わんこっちゃない。お前、夕食残しただろ。な、夕食残しただろ。食べろって言っても食べなかったもんな。言うこと聞かないから・・・」

 「ドリアが食べたい」

 父親の体が硬直した。せっかく買ってやった惣菜を食べずに我が儘言いやがって、というよりは、触れてはいけない禁句に触れられた緊張感があった。

 息子はいつの間にか、すぐ目の前に来てたたずんでいる。幼い右手は相変わらず顔のあちこちをまさぐって、何が痒いのかわからない。

 父親の目が、狂気に近い憤りの光を帯びて、トレーの山を睨んだ。

 「母さんは死んだ」

 薄汚れたパジャマに包まれた幼い体が、電気ショックでも浴びたように、びくり、と震えた。すでに何百回と確認し、思い知らされてきた事実のはずだが、少年の耳には初めてのように聞こえるらしかった。

 父親はウィスキーボトルを鷲掴みにし、わずかな残りをグラスに注いだ。

 「もう寝ろ」

 「ドリアが食べたい」

 ボトルがぐらつき、ウィスキーがこぼれた。

 「聞こえなかったのか。聞こえなかったことはないな、勇太。な、わかってるよな。お前も四月からは五年生だ。五年生は・・・高学年だ、勇太。おい。いい加減────いい加減現実を受け止めろ。前を向け。明日も学校だろ? 前を向け勇太。わかるな。ドリアを作ってくれる人はもうこの世にいないんだよ」

 父親はグラスを持ち上げたが、急に自分の言葉に自分で苛立ってきたのか、鼻息を荒げると口もつけずにテーブルに戻した。

 壁時計が日付の変わり目を告げる。それを見る人はいない。

 「寝ろ」

 力を籠めた怒声だった。小学四年生は当然予期していたかのように格別驚きもせず、素直に回れ右をしてダイニングルームを出た。

 「いや待て勇太」

 不意に人並みの親心が湧いてきたのか、さすがにこのあしらいは酷いと自省したのか、はたまた自分が相当酔っ払っていることに今更ながら気づいたのか、父親は慌てて、別人のように優しい声で息子を引き留めた。

 入口の壁から十歳の息子の顔が半分だけ覗く。

 「腹が減っていたんだな。腹が減ってちゃ眠れんだろう。ほら、こっちにおいで」

 ペタペタと素足を鳴らしながら少年は近づいた。

 父親はわが子のなで肩に腕を回し、かつて親子三人の時はよく使っていた穏やかで優しい、もうほとんど忘れかけていた口調を思い出すようにして、ささやいた。

 「ほら。ここにいろいろあるぞ。ほら、好きなのをお食べ。ええと、ポテトサラダが残ってるな、これなかなか旨いぞ。それから、唐揚げもある。唐揚げもあるぞ。それとも麻婆春雨がいいか?」

 少年は腹を突き出し、顎を引き、父親の耳にはっきり届く声で言った。

 「ドリアが食べたい」

 次の瞬間、直下型地震のような衝撃が起こったのは、男がテーブルを拳で思いきり叩いたからだった。

 「いい加減にしろ!」

 叩いただけではなかった。テーブルの上に山積みになっていた惣菜や何もかもが、彼の太い腕になぎ払われて、脇に飛び散った。グラスが床で砕ける音がした。

 振動が伝わったのか、壁のカレンダーが画鋲ごと落ちた。

 父親は全力疾走を終えたばかりのように全身を真っ赤にして息を切らせた。息子は杭に縄で縛りつけられたかのように微動だにできなかった。

 「いい加減にしろ!」

 怒号は涙を含んでひび割れた。

 「母さんは死んだんだよ。死んだんだよ。世界一旨いドリアを作ってくれた人は、もういないんだよ。ああ、確かに母さんのシーフードドリアは最高だったな。何を作っても旨かった、母さんの作るものは。ドリアは特に、特に最高だった。三人の大好物だったもんな。父さんも食べたいよ。父さんこそ食べたいよ。だがな、勇太。じゃあどうしろって言うんだ。え? お前はどうして欲しいんだ。ドリアを作る人はいないんだよ。俺じゃ作れないんだよ。それとも何か。おい。父さんを困らせたいのか。勇太。お前は父さんを困らせたいのか」

 頬に止めどなく涙が伝わる。両肩を激しく揺さぶられ、少年も泣きじゃくり始めた。

 「ドリアはないんだ。あのシーフードドリアは、もうこの世にないんだ。勝手に、先に、死んじゃったんだ。勝手に、俺たちだけおいて・・・・これからどうすりゃいいか、もう、父さんもわからないんだ」

 体を揺さぶられ、嗚咽に言葉を詰まらせながら、やっとの思いで少年が言った。

 「父さんも作った」

 父親の手がはたと止まった。「何だと」

 「父さんも、母さんと一緒に、作ったことある」

 キョトンとした顔で息子を眺めていた父親は、涙でくしゃくしゃになった顔で苦笑した。

 「は、は、一回だけな。ちょっとだけ手伝ったやつな」

 「父さんも作った」

 「いや、あれはほんとに手伝っただけだ。作ったうちに入らんな」

 「作り方、聞いてた」

 「・・・まあ・・・まあ、な。聞いたかもしれんが・・・」

 「作ろう」

 「え?」

 「一緒に作ろう」

 父親は息子をまじまじと見つめた。まるで、初めてその存在をしっかりと目にしたかのように。

 「作って欲しかったのか」

 こくりと少年は頷く。

 「母さんの、ドリアを」

 また、こくり。

 父親は鼻を啜った。椅子から降り、床に膝を突いて息子と向き合った。

 「────母さんのようには、美味しくできんぞ」

 「知ってる」

 父親は破顔し、息子の頭を腕で抱き寄せた。

 「よし作ろう」

 「うん」

 「一緒に作ろう」

 「うん」

 顔を強く父親の胸に押し付けられ、少年の声はほとんど聞き取れないほどに籠っていた。しかし、その明るさを取り戻しつつある声の響きを、父親は肌で聞いた。今しばらく、そうしていたいと、彼は思った。

 「勇太」

 「うん?」

 「ごめんな」

 「うん」

 「ほんと────ほんとごめんな」

 「うん」

 

 

(おわり)

 

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前・後編読み切り  『旅は手と手を取りあって』  《前編》

2016年10月04日 | 短編

 

 都会暮らしの人がときたま田舎を訪れると、商売とか経済とか、そういったものの定義を根本から疑いたくなるようなものに出会うことがある。その建物もそんな出会いの一つであった。

 それは食堂であったが、今も経営しているかどうかの前に、そもそも人が住んでいるかどうかを確かめたくなる面構えであった。古民家と言われれば古民家とも言えた。幽霊屋敷と言われればどう見ても幽霊屋敷であった。しかし一応、「丸山食堂」の看板は出ているのであるし、多年の風雨にさらされたとは言え、その文字は何とか判読できた。

 東京から電車とバスを乗り継いできた大学生のカップルが、その建物の前で、丸五分間どうしていいかわからずに佇んだ。

 男はこの暑いのにワイシャツ姿で、黒いリュックを背負っている。顎と鼻梁のラインが細い。目つきはクールだがなかなか鋭い。腕まくりした長袖の折り目は正しく、四角い黒ぶちメガネと相まって、神経質な印象を彼に与えている。

 女はTシャツに色褪せたデニム、腰に巻いたブラウスの巻き方はいい加減で、肩まである黒髪も自然に伸びるに任せた観があり、男よりはずっとざっくばらんな性格を思わせる。顔つきは身なりほど粗野ではなく、均整の取れた目鼻立ちで、ギリシャ彫刻のような気品がある。ただ当の本人は、ギリシャ彫刻のようにおしとやかに納まるつもりは毛頭ないらしい。

 いずれにせよ二人とも、大都会からちょっと散策のつもりで電車に飛び乗って、思わずこんな遠方まで来てしまいましたと言わんばかりの軽装である。

 「仕方ないな。他にないんだから」

 男は腕を組み、いささかうんざりした表情で看板を見上げながら呟いた。

 「いいじゃん、風情があって」

 女は男と比べてずっと能天気である。腰に手を当て、彼女としては無意識であろうが、しゃべるときにお尻を振った。「こういうところが、案外すごく美味しかったりして」

 男は嘆息しながら首を振る。「それはないね」

 「まあ、ね。これが旅よ。冒険するつもりでさ、レッツゴー」

 

 狭い村であった。四方を囲む山々は、緑があまりに濃すぎて何だか窮屈そうに見えた。青空は強烈な八月の太陽を持て余していた。油蝉がしきりに鳴いた。ときおり木立の中で何かが悲鳴を上げた。村人たちはみんな昼寝をしているのか、どの通りにも人けがなかった。

 

 若い男女は食堂に入り、ラーメンとカレーライスを注文した。

 「はい、はい。ラーメンと、カレーね」

 注文を受けた老婆は、絶えずふらつく体を支えるために、瓶ビール用のガラス張りの冷蔵庫とか、椅子の背もたれとか、張り紙だらけの柱とか、とにかくいろんな物に触りながら厨房へと戻っていった。老婆の後を追って、痩せた猫も厨房へ消えた。 

 「大丈夫かな」と男。

 「いろんな意味でドキドキだわ」と女。

 「君はほんと、こういうの好きだよね」

 半ばあきれ顔で男はそう言うと、尻のポケットからスマートフォンを取り出した。話の途切れたときにそうするのが癖らしい。女はその所作に一瞬顔を曇らせたが、画面に視線を落とした男はそれに気づいていない。

 「一応、周辺の観光を調べておくね」

 男はちらりとだけ黒眼鏡越しに視線を上げて女に断った。

 「ありがと」

 男の一瞥を逃さず、女は髪の毛を払いながら笑顔でそれに答えた。

 客は彼らの他に誰もいない。

 土間にテーブルと椅子を置いただけの食堂内には、もちろんエアコンなど無い。全身真鍮でできた小さな扇風機が一台回っているだけであるが、案外涼しかった。煤けた梁に貼られた品書きには、ラーメンとカレーライスと日替わり定食とビールとラムネ。日替わり定食は、今日はねえさ、と断られたから、ラーメンとカレーにしたのだ。日替わりがないとはどういうことかと、立っているだけでも震えが来ている様子の老婆に問いただす勇気は、二人とも持ち合わせてなかった。

 店内のあちこちを興味深そうにじろじろ眺め回していた女は、向かい合わせに座る旅の伴侶に視線を戻した。彼はこまめに指を動かしながら、スマートフォンに集中している。

 「ねえ」

 彼女は自分の思い付きが楽しくてしょうがないかのように、含み笑いをして頬杖を突いた。

 男は右手から顔を上げた。「ん?」

 「ビール飲まない? せっかくだから」

 「昼間から? 本気?」

 「せっかくの旅行じゃない。一本だけ。せっかくだもん。ね。それにさ・・・どんなものが来ても、ビールがあったら食べられそうじゃない?」

 これには男も笑った。「消毒?」

 「消毒はひどいわね。そんなんじゃないけど・・・」

 「賛成。注文しよう。ただし、酔っぱらって午後一杯動けなくなっても知らないよ」

 「大丈夫よ、一本くらい」

 男は厨房に向かって「すみません」と声をかけた。が、返事はない。

 「すみません」

 鍋がコンロに当たる音や、菜箸の触れ合う音は聞こえるが、返事はやはりない。

 三度目に声を張り上げると、台所から猫がニャアと答えた。

 

 折り紙や広告紙で作った大小さまざまな紙風船が五個、油と埃の混ざったようなものをうっすら被って、窓の桟に並べてある。単なる紙細工であるが、長い年月を経て、桟に根を張っているのではないかと思われるほど、動かしがたい印象を受ける。埃がひどく、触るのに勇気がいる代物である。それらを眺めながら、女はグラスのビールを飲み干した。頬がほんのりと赤い。

 彼女は恋人に目を転じた。

 ところがかの恋人は依然として、スマートフォンに目を落としている。女は鼻息をついた。酔っているので、感情を包み隠そうという気が薄れている。気付いてもらえない空のグラスを、音を立ててテーブルに置いた。ビール瓶を持ち上げ、九割がた入っている男のグラスに注ぎ、それから自分のグラスに注いだ。

 「ユウ君」

 「ん?」

 「ラーメンが伸びるよ」

 「うん。残り食べてもいいよ」

 「あたしカレーでおなか一杯。結構おいしいラーメンじゃない。伸びないうちに食べれば」

 「うん」

 「ねえ」

 語気に驚いてユウ君は顔を上げた。

 女は怒りを顕わにしている。

 「ちょっと、せっかく二人で旅行しているのに、自分の世界に入り過ぎじゃない?」

 ユウ君は眉を顰めた。

 「僕は帰りのバスの時間を調べていただけだよ」

 「停留所で見たじゃない」

 「うん、でももう一つ早い便がないかと思ってね。というのもね、駅まで戻る別の路線バ スもあるみたいなんだ」

 女は火照った頬を膨らませ、小皿のたくあんを箸で刺すように摘んだ。

 「もうここを出たいわけ?」

 「この村には見るものはないよ」

 「そんなのわかんないじゃない。探索してみなきゃ」

 「無駄だよ。ネットで調べてみたけど、何の観光名所もない。やっぱり、無計画にバスに乗ったりするべきじゃなかったんだ」

 「嫌なのね。こういう旅が」

 「嫌ってわけじゃないけど・・・でも、ほんとに何にもないよ、ここには。古い寺しかない。怪しげな温泉施設が一軒あるけど、温泉に入るにはまだ早いだろ」

 「そうなんだ。ユウ君は、観光名所じゃなきゃ、見てもつまんないと思ってるのね?」

 「まず間違いないね」

 「つまんない男」

 「サヤ」

 どんなに大人しい男だって、こんなことを言われたら黙っているわけにはいかない。ユウ君は急激に湧いてきた憤りに押し倒されたように、椅子の背もたれに背中を押しあて、歯の隙間から息を荒げた。スマートフォンの電源を切って、機器をテーブルに置く。

 重苦しい空気が二人の間に横たわった。

 「サヤ、僕らは嗜好が違うのかも知れない」

 「違うわね。大いに違うわ。私は名もない山や川を見て十分楽しいけど、ユウ君は立て看板に説明書きと、広い駐車場と併設の土産物屋でもなきゃ、見る価値がないと思ってるのね」

 「それは言い過ぎだよ」

 「言い過ぎたのかしら」

 「僕だって田舎の風景とか自然とか大好きだ。だから今度の旅に賛成したんじゃないか。でも、せっかく二人で来たんだ。いろいろ日程を調節してさ。僕らにとって大事な旅行だろ?これは。だからこそ失敗したくないんだ」

 「失敗って何」

 「失敗だよ。わかるだろそんなこと? せっかく旅行してるのに、あんまり面白くなかったりとか、大したことなかったりとかしたら、嫌じゃないか。思い出として」

 サヤは空気が抜けた風船のように、頭を抱えこみ、首を横に振った。憐憫を込めた軽蔑というものを仕草に表せるとしたら、彼女は見事にそれに成功していた。

 「ユウ君、ユウ君のそういうところが、一番思い出をつまんなくさせるのよ」

 「そうだね。何しろつまんない男らしいからね」

 ユウ君はビールをがぶ飲みして、口元を手の甲で拭うと、憎悪に燃えた視線のやり場に困ったのか、スマートフォンの電源を再び入れた。

 サヤも腕組みをし、横を向いて押し黙った。

 (後編につづく)

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前・後編読み切り  『旅は手と手を取りあって』  《後編》

2016年10月04日 | 短編

 

 子どもの歓声がはるか遠くで聞こえる。ほとんど罵り声に近い。

 食器棚の上に乗った痩せ猫が、じっと二人の客を見つめる。

 男の反撃は終わってなかった。酔った席であろうがなかろうが、自分の惚れた人であろうがなかろうが、彼のプライドをここまで踏みにじられて黙って引き下がるわけにはいかなかった。そうするには、彼はあまりに几帳面であった。彼はスマートフォンを見つめたまま、向かいに座る女に向かって呟いた。一語一語、苦しみながら絞り出すような声で。

 「君は、いい加減だ」

 「あ、そう」

 「いい加減で、身勝手だ」

 「え? ちょっとちょっと、どういうこと。え、何? いい加減はわかったわ。私はどうせいい加減よ。そりゃ自分でもわかってるもん。でも何? 身勝手って」

 「身勝手だよ。君が無計画好きなのはいい。何でもない田舎の食堂や何でもない普通のカレーやラーメンが好きなのもいい。それは君の好みだから文句は言わない」

 顔を真っ赤にしたサヤは、彼に言い返す前に、空のビール瓶を右手に振りながら厨房に向かって叫んだ。

 「ビールお代わりお願いします!」

 もちろん反応はない。ここの老女将は、火事です、と大声で叫んでも、四、五回繰り返すまでは聞こえないだろう。

 サヤは体の上半分を椅子からはみ出させて、腹の底から声を上げて怒鳴った。「すみません! ビールお願いします!」

 「僕はもう飲まないよ」

 肩透かしをくらった彼女は、体勢を慌てて元に戻した。

 「ちなみに──ちなみに私、別に普通のカレーやラーメンとやらが好きなわけじゃないですけど。でも続けて」

 「え?」

 「いいから続けて。何か言いかけてたじゃない。続けてよ」

 「僕はもう飲まないって言ったんだ」

 「それは聞いたわ。さっき言いかけてたことよ。私が身勝手だってこと。お願いだから続けて」

 ユウ君は眼鏡を外し、目を手の甲で擦ってからかけ直した。

 「君が行き当たりばったりの旅をするのは構わない。それに僕を巻き込むのも、まあ構わない」

 「構わないんだ」

 「構わない。僕が構わないと言ったら構わないよ。でもね(ここで彼は感極まったように拳でテーブルをコツコツと叩いた)、君が君の流儀でやるなら、僕が僕の流儀でやることにも文句を言わないで欲しいね」

 「誰が文句言ったの」

 「君だよ。覚えてないの?」

 「文句なんか言ってないわ」

 「言ったよ。自分の言ったこと覚えてないの? 君はね、サヤ、自分の価値観に照らし合わせて人をつまんないとか面白くないとか一方的に決めつけることで、自分を正当化しているんだよ。いい加減なやり方が好きなのは君の自由さ。それは勝手にやってくれ。こっちも付き合える範囲で付き合うよ。でも価値観の違う人間を馬鹿にしてだよ、それで自分を正当化して自己満足するなんて、傲慢だよ。ただただ、傲慢なだけだよ」

 不幸なことに、二人とも酔っていた。店の中は直射日光が当たらない分ひんやりしており、扇風機も一台回っていたとは言え、アルコールの入った人間には暑さを感じさせた。おまけにラーメンと、さほど辛くはないがカレーとを食して、二人とも汗を掻いていた。これらの諸要因で、二人とも体の中が火照っており、どこかで退くべきところを共に逃してしまっていた。

 サヤの充血した目には涙が溜まっている。

 「私は、二人で楽しく旅行したいって言っただけよ」

 「絶対そんなこと言ってない。絶対そうは言わなかったよ。だから君はいい加減なんだ」

 「ひどい。私はどうせいい加減よ(彼女は一筋流れた涙を拭った)。それは認めるってさっきから言ってるじゃない。でも、でも私はね、普段はそれなりに時間に追われて、レポートとかバイトとか頑張ってんだから、せめてバカンスくらい思いっきり開放的に過ごしたいのよ。それもあなたとの旅行じゃない。思いっきり楽しみたいのよ。あなたも一緒の考えかと思ったんだけど。ごめんなさい。じゃああなたは・・・」

 喋っていたサヤが急に息を呑んだ。彼女がほとんど恐怖に近い驚きを感じたことに、いつの間にか老婆が傍らに立っていたのだ。どのタイミングで追加注文の声が届いていたのかわからないが、震える手にビール瓶を抱えている。

 「へえ。お代わり」

 かなり動揺しながら、サヤは差し出されたビール瓶と老婆の顔を交互に見つめた。

 「あ、いや・・・すみません、やっぱり・・・」

 「いらんかの」

 「いえ、その・・・」

 相方の方を見たら、彼も気づまりな表情をしているものの、助け舟を出す気はないらしい。それにも腹が立ったが、確かにもう一本大瓶を空ける自信も彼女にはない。窮地に立たされた彼女を救ったのは、バタバタした複数の靴音と、直後に店の戸を開いて発せられた総勢六人の子どもたちの天井まで届く喚声であった。

 「ばっちゃ、ラムネくれ!」

 「ラムネおいらも!」

 「ありゃ、五本しかねえずら、おーい、金ねえやつは入るな!」

 「真治は金ねえど。真治は入るな!」

 「わしも今日は持ってるだ」

 「うわー、違った、四本しかねえずら。わちゃー、ばっちゃ、なんで四本しか入れとらん」

 「わちゃー、四本か。四本だったらよー、まだ滝壺に飛び込めんカジとひー坊は無しずら」

 「おいら飛び込むだ! 今日飛び込むだ」

 「今日飛び込むんだって。ほんまか!」

 「ばっちゃ、そんでなんで四本しか仕入れとらん?」

 これらの言葉が(実際にはこの二倍を上回る台詞が)ものの十数秒の間に、声変わり前の子供たちから一斉に放たれたのだから、それはまるで、空き缶を六本、階段の上から一斉に転がり落したのと同じようなものであった。耳を塞ぎたくなるような喧騒が、食堂内に飽和した。

 彼らはどれもこれも真っ黒に日焼けしていて、遠目には個人の区別がつきかねた。しかし近くで観察すれば、もちろん個々の違いはすぐに見分けがついた。中で一番背が高い(と言っても大人の腰くらいしかなかったが)少年は、おそらく五、六年生で、やたらと腕を組んで、金がない奴は店に入るなとか、ラムネを四本しか仕入れていないことで老婆を詰問したりとか、先ほどから一番うるさく発言していた。筋肉質で、この集団のリーダー的存在であろうが、今一つ彼の言葉をみなが拝聴している様子がない。

 金のないと言われた真治は誰よりもひょろっとしているが、四年生くらいだろうか。うりざね顔で、四年生にしてすでに世の中を斜めに見ている嫌いがある。

 まだ滝壺に飛び込めないことを指摘されたカジとひー坊は、おそらくまだ三年生にもなってなかろう。甲高い声で同じことを繰り返し叫んでいるから、喧しいのは彼らが一番喧しい。

 あと二人はともに高学年か。一人は眼鏡をかけ、六人の中で一番言葉少なであり、どちらかと言うと発言するよりも傍でニタニタ笑いながら観察している方が性に合うといった感じの男の子である。もう一人は太っていて、年下に対して辛辣な言葉を吐くのを信条としており、滝壺に未だ飛び込めない年下二人をラムネの分配から除外しようとした当人である。

 六人は一通り喚きたいだけ喚いてから、都会から来た男女に気づいたらしい。まるで外国人に出くわしたかのように、警戒心を顕わにして押し黙った。

 老婆が腰を叩きながら「コウノベさんが火曜日にならんと来んから、これしかねえだ。四本を六人で分けりゃええに」と言った。

 それに耳を傾ける者はいない。リーダー的存在の少年(ほかの少年たちに「マサやん」と呼ばれていた)が、自分の出番と思ってか、ぎこちなく肩をいからせて一歩前へ出た。

 緊張のあまり短く鼻息まで吸って、

 「旅行者ずら?」

 突然の問いかけに、サヤは

 「旅行者よ。あんたたち夏休み?」

 フレンドリーな返答に安心したのか、小学生軍団は急に活気づいた。

 「夏休み!」「でも今年は短いもん」「短くねえずら」「短いって。真ちゃんそんなことも知らねえだか」「知ってるわ!」「知らねえずら」

 ラムネ四本の栓が空いた。少年たちは誰かを小突いたりゲラゲラ笑ったり何かに悪態をついたりしないとジュースを口に含むことも出来ないような連中であった。

 ガラス瓶を回し飲みしながら会話は続く。

 「恋人かや」と太った少年。「夫婦ずら」とマサやんが知ったかぶる。「夫婦ってことねえべ。若えずら」と眼鏡。「恋人なら、キス、キスしたかや」と一番背の低いひー坊。「当たり前だろ! ひー坊お前馬鹿じゃねえか?」「ひー坊馬鹿じゃ!」「うるせえ!」

 興奮して収拾のつかなくなった子どもたちに、老婆が再びガラガラ声で口を挟んだ。

 「おめえたち、今日滝さ行くだか?」

 「行く! 今から行く!」

 「カジとひー坊はまだ飛び込ましちゃなんねえど」

 「飛び込むもん!」ひー坊がムキになって言い返す。

 「飛び込むもん! おらも飛び込むもん!」慌ててカジも唱和する。

 「まださせねえから大丈夫だ」とマサやんが老婆にぼそりと伝える。

 涙のとっくに乾いていたサヤは、別の意味で目を光らせて彼らの会話を聞いていたが、ここにきて我慢しきれないように身を乗り出した。

 「この辺に滝があるの?」

 「すぐそこだ!」「すぐだ、歩いて五分だ」「十分だ、馬鹿」

 「お姉ちゃんもついて行ってみていい?」

 子どもたちはなぜだか、勝ち誇ったように歓声を上げた。 

 サヤはテーブルに両手を突いて立ち上がった。それから、自分ですら感情のわからない複雑な表情で、先ほど口喧嘩したばかりの好きだった男を見やった。

 「あなたは?」

 ユウタは(それが彼の正式な名前である)しばらく前、口喧嘩の最中に恋人の目から涙が伝ったときから、内心ずっと動揺していた。子どもたちに登場されてからは頭痛がした。何が何だかわからなかった。ただ、混乱した頭の片隅で、もし彼女に「あなたは?」と訊かれなかったら、ひどく寂しかったであろうことを、遅ればせながら自覚した。

 彼は腰を浮かした。「行くよ。もちろん、行くさ」

  

 滝は豪快に清水を滝壺に注ぎこんでいた。轟が群生するシダを絶えず揺らした。鳥たちが上空を行き交い、川原にはとんぼが舞い、立ちこめる水煙は夏の日差しを幻想的に和らげていた。

 都会から来た二人組は呆然と立ちすくんだ。

 「きれい」サヤがつぶやいた。

 「この高さで・・・飛び込むのか」ユウタは口を開けて仰ぎ見た。

 滝の高さは、五、六メートルはあろうか。

 リーダーのマサやんが二人を呼んだ。

 「こっち来てみな」

 靴を脱ぎ、足を濡らしながら石伝いに滝の正面に移動すると、二人はおお、と感嘆の声を上げた。

 「虹!」

 「虹だ!」

 水煙に光が反射して、滝の中腹に虹がかかっている。スマートな半円形で、七色と言うには無理があるが、四色くらいには見える。オレンジとスカイブルーがひときわ鮮やかである。滝の轟にも、森を抜ける風にも、それは微動だにせず、静謐な時間の中でひっそりと輝いていた。おとぎの国の入り口みたい、と女はつぶやいた。くぐってみたくなるね、と男がつぶやき返した。浅瀬を渡ってくるとき、転ばないよう繋いだ手を、二人とも握りしめたままであった。

 「おーい」

 いつの間に移動したのか、滝の注ぎ口の高い岩場に、日に焼けた上半身にパンツ一枚の姿で、マサやんが手を振っている。他の連中もまるで飛び込みの発表会にでも参加しているように、彼の後ろにぞろぞろとくっついている。 

 サヤが拡声器代わりに口に手を当て、叫んだ。

 「そこから虹が見えるの?」

 マサやんが何か答えたが、滝の音が喧しくて聞こえない。

 「そこから虹が見えるの?」

 彼女はもう一度繰り返した。

 「行くぞ!」

 マサやんはどうやら跳べという合図に受け取ったらしく、ひときわ大きく叫んだかと思うと、ぱっと岩を蹴って宙に浮き、滝の水と同じ速度で滝壺に消えていった。

 子どもたちのはやし立てる声が滝の音に掻き消される。滝の上と下では会話が通じないらしい。

 「カジとひー坊は跳んじゃダメよ!」

 老婆に何となく恩義を感じていたサヤは、老婆の忠告を繰り返した。どうせ聞こえてはいないだろう。

 「駄目だな、写らないや」

 スマートフォンをカメラにしてかざしていたユウタは、虹を撮るのを諦めた。

 女は男のシャツを掴んだ。「ユウ君、上に登ってみようよ」

 「え? 飛び込むつもり?」男はたじろいだ。

 「違うの。虹を上から見てみるの。どんな風に見えるか、見てみたくない?」

 「虹を上から?・・・どうかなあ。角度が違えば見えないんじゃない」

 「そうかも知れない。でも、そうじゃないかも知れない」

 シャツを掴む手が緩んだ。「・・・止めとく?」

 「いや、行こう」

 「ユウ君」

 ユウタはサヤの手を取り、少し照れくさそうに微笑んでみせた。「登ってみよう。そうだね。ひょっとして何かが、見えるかも知れない」

(終わり)

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