ガラスが割れるのと、女が高笑いするのは、周囲に及ぼす効果にさして変わりがない。声の太さと遠慮のなさ。声の主は探すまでもない、妹由紀子である。雑巾顔にセピア色の偏光グラスである。兄の通夜の席でも平気で大口を開けて笑える二十一世紀的神経である。
一同の視線は当然ながら彼女に集まる。
注目の女は何人かの背中を屈めさせながらゆったりと部屋を横切り、叔父の隣に腰を下ろした。
空のグラスを持ち上げる。
「なるほどねえ。ようやくわかったわ。兄さんが身内に対して疑り深かったのは哲学のせいなんだ」
「身内を疑ってたのかい」と意外な表情の大裕叔父。
「信用してなかったもの。ちょっと、私にもビールちょうだい」
誰も合いの手を入れられない。当たり前である。仏を前にして話題が不謹慎すぎるのである。本人は居場所を心得ているのだろうか。それともやくざ眼鏡には、眼前の私の棺も映らないのだろうか。
よっぽどビールを飲みたかったんだろうと思われるような飲みっぷりで、彼女はグラスを半分干した。親指で口元の泡を拭ってから、長い吐息をつく。
「身内だけじゃないね。誰も信用してなかったんじゃないかな。ま、それよりも哲学の話だったっけ」
「え? ええ、そうですがね」
唐島は口ごもる。唐島は俗物である。俗物はしょせん学問よりもゴシップの方が断然好きなのである。彼は由紀子の話題の方に引き寄せられている。「宇津木さんは誰も信用してませんでしたか」
「その話? そうねえ」
うそぶくセピア色のレンズの奥に、ひどく醒めた目つきがある。愚痴を周囲に漏らすときはいつもそうだ。妹のしゃべり方は四十年前からまったく変わっていない。
「信用かあ。信用ってさ、私ゃどういうことかよくわかんないけど。でも兄さんは誰も信用してなかったね。確実よ。だって誰も自分を愛してないと思ってたんだもの。そういうこと。誰も自分を愛してないと思ってたのさ。みんな自分を嫌ってるくらいに思ってた。だから人嫌いになったのよ」
空咳をした者がいる。見れば大仁田である。どうも非難の意味より、賛同の意味合いが濃い咳である。
併せて鼻で笑った輩もいる。見れば、息子の博史である。不届き千万。
家を囲む地鳴りのような雨音が、私の代わりに怒りを伝える。
由紀子は煙草を口にくわえた。何を考え込んでか、火も点けずにそれを下ろす。
「いつだったかなあ。そう、兄さんが教授になりたてのころか。もう十年も前になるわねえ。兄さんの誕生日だってんで、ふと思いついて贈り物したのよ。贈り物。普段は全然しないんだけどさ。ちょっとした絶交状態が続いてたしね。でもお互い大人になったんだし、平和な仲を取り戻すきっかけになればいいしって私は思ってね。私はね。ま、教授へ昇格祝いも兼ねてってところよ。へ、ちっちゃなポーチをね。バレンチノだけど。それを手渡しで贈ったのさ。兄に。誕生日おめでとうって。懐かしいなあ。そしたら兄さん、なんて言ったと思う。ちょっと、なんて言ったと思う。真顔で、『何を狙ってるんだ』だって。『何を狙ってるんだ』だよ。私ポーチをもぎ取って奪い返しちゃったもんね。あんまり腹立ったから。そりゃちょうどさ、こっちの資金繰りの悪かったころでもあったのよ。そういう時期と重なってたのは、そりゃ確かだけど、でもそりゃないでしょ。こっちも兄さんなんかに借りる気なんてさらさらなかったし。『何を狙ってるんだ』だよ。プレゼントに対して。びっくりするわねえ。『何狙ってるんだ』って言われてごらん。実の兄に。兄じゃなくてもありえないわよ。もんのすごい被害妄想よ。世の中の人全部が何かしら悪意を持って自分に擦り寄ってくるんだと思い込んでたみたい。寂しがり屋の癖に、近づく人をみんな警戒するのさ。根は寂しがり屋なのにねえ。寂しいのに、人の好意を素直に受け取れないのよ。だから疑うのよ。疑って、疑って、とにかく疑うの。周りの友人知人、肉親兄弟すべて、誰でも、いつか自分を裏切るんじゃないかって疑って、そんな不安をさ、酒で紛らわせたんだかどうだか、知らないけどさ、ぽっくり逝っちゃったんだから、何だか可哀想じゃない?」
(つづく)
一同の視線は当然ながら彼女に集まる。
注目の女は何人かの背中を屈めさせながらゆったりと部屋を横切り、叔父の隣に腰を下ろした。
空のグラスを持ち上げる。
「なるほどねえ。ようやくわかったわ。兄さんが身内に対して疑り深かったのは哲学のせいなんだ」
「身内を疑ってたのかい」と意外な表情の大裕叔父。
「信用してなかったもの。ちょっと、私にもビールちょうだい」
誰も合いの手を入れられない。当たり前である。仏を前にして話題が不謹慎すぎるのである。本人は居場所を心得ているのだろうか。それともやくざ眼鏡には、眼前の私の棺も映らないのだろうか。
よっぽどビールを飲みたかったんだろうと思われるような飲みっぷりで、彼女はグラスを半分干した。親指で口元の泡を拭ってから、長い吐息をつく。
「身内だけじゃないね。誰も信用してなかったんじゃないかな。ま、それよりも哲学の話だったっけ」
「え? ええ、そうですがね」
唐島は口ごもる。唐島は俗物である。俗物はしょせん学問よりもゴシップの方が断然好きなのである。彼は由紀子の話題の方に引き寄せられている。「宇津木さんは誰も信用してませんでしたか」
「その話? そうねえ」
うそぶくセピア色のレンズの奥に、ひどく醒めた目つきがある。愚痴を周囲に漏らすときはいつもそうだ。妹のしゃべり方は四十年前からまったく変わっていない。
「信用かあ。信用ってさ、私ゃどういうことかよくわかんないけど。でも兄さんは誰も信用してなかったね。確実よ。だって誰も自分を愛してないと思ってたんだもの。そういうこと。誰も自分を愛してないと思ってたのさ。みんな自分を嫌ってるくらいに思ってた。だから人嫌いになったのよ」
空咳をした者がいる。見れば大仁田である。どうも非難の意味より、賛同の意味合いが濃い咳である。
併せて鼻で笑った輩もいる。見れば、息子の博史である。不届き千万。
家を囲む地鳴りのような雨音が、私の代わりに怒りを伝える。
由紀子は煙草を口にくわえた。何を考え込んでか、火も点けずにそれを下ろす。
「いつだったかなあ。そう、兄さんが教授になりたてのころか。もう十年も前になるわねえ。兄さんの誕生日だってんで、ふと思いついて贈り物したのよ。贈り物。普段は全然しないんだけどさ。ちょっとした絶交状態が続いてたしね。でもお互い大人になったんだし、平和な仲を取り戻すきっかけになればいいしって私は思ってね。私はね。ま、教授へ昇格祝いも兼ねてってところよ。へ、ちっちゃなポーチをね。バレンチノだけど。それを手渡しで贈ったのさ。兄に。誕生日おめでとうって。懐かしいなあ。そしたら兄さん、なんて言ったと思う。ちょっと、なんて言ったと思う。真顔で、『何を狙ってるんだ』だって。『何を狙ってるんだ』だよ。私ポーチをもぎ取って奪い返しちゃったもんね。あんまり腹立ったから。そりゃちょうどさ、こっちの資金繰りの悪かったころでもあったのよ。そういう時期と重なってたのは、そりゃ確かだけど、でもそりゃないでしょ。こっちも兄さんなんかに借りる気なんてさらさらなかったし。『何を狙ってるんだ』だよ。プレゼントに対して。びっくりするわねえ。『何狙ってるんだ』って言われてごらん。実の兄に。兄じゃなくてもありえないわよ。もんのすごい被害妄想よ。世の中の人全部が何かしら悪意を持って自分に擦り寄ってくるんだと思い込んでたみたい。寂しがり屋の癖に、近づく人をみんな警戒するのさ。根は寂しがり屋なのにねえ。寂しいのに、人の好意を素直に受け取れないのよ。だから疑うのよ。疑って、疑って、とにかく疑うの。周りの友人知人、肉親兄弟すべて、誰でも、いつか自分を裏切るんじゃないかって疑って、そんな不安をさ、酒で紛らわせたんだかどうだか、知らないけどさ、ぽっくり逝っちゃったんだから、何だか可哀想じゃない?」
(つづく)