第二章
私の通夜は葬儀屋と美咲の打ち合わせどおり、我が家にて翌々日に執り行われた。
この日も雨であった。狐の嫁入りどころか、アスファルトに飛沫が立つほどの本降りである。私の通夜に天が涙してくれたのかも知れない。しかしそれにしても激しい。憐れみの涙というよりは嫌がらせである。私の死という穢れを、なるべく早く洗い去ってしまおうという魂胆か。くわばら、我ながら僻んだものの見方である。
あの天使の面をした魔女に「死海」を見せられて以来、私は随分鬱々として時を過ごしていた。食事排泄入浴はもちろん、夜寝る必要すらなかったので、私は小石のように時間を持て余した。かつて、時間は私の前にあって私を引き摺り回している感があった。今、時間は私の後ろにいて足枷となって私を引き留める。日中はどうしてまだ日が沈まないのかと柱時計を探した。夜はこのまま朝が来ないんじゃないかと恐怖した。霊魂生活とでも言うべき現在の環境に、私ははや倦みかけていた。
考えてみれば可笑しな話である。私は透明人間になったのだ。字義通り、まったく理想的な形で。透明人間とは都合が良いではないか。今こそ、生前内なる倫理観が歯止めをかけていたもろもろの欲求を満たす好機である。私はどこにでも行ける。どこに行けば楽しいか。低俗ではあるが、他人の私生活を覗くことくらいはすぐに思い当たる。そして実際に私は一、二度試してもみた。正直に告白するが、若い女の裸も見たし、有名な女優の寝顔も見た。しかしいずれのときも何の感慨も見出せなかった。私はすぐにそれらの行為を止めた。立派である。私は案外根が純真なのかも知れない。それとも自分の運命を思い煩うことで手一杯なだけか。あるいはあるいは。他の幽体離脱者に私の行為を見られているのでは、という危惧は大したものではないにしても、死者としては当然であろう欲望の欠落がそもそもの原因だとすれば。不能者のように何の欲情も沸かなくなったのだとすれば。それはそれで、しみじみと虚しい。満たす必要のない杯ならば満たしたいと感じないのももっともである。私が現在女の裸とか好機とか言うのは単に記憶という残滓にすがり付いているだけであり、それもいつか風化し消え去れば、そのとき私は、朽木のように感情全般を失ってしまうのか。
どうも思考が自虐的になっていけない。真夜中に公園のベンチに疲れてもいないのに腰掛けて、街燈の照らす赤煉瓦敷きの地面を眠たくもない目でじっと眺めていると、ふと、どうして自分は完全に死ねなかったのだろうという思いが脳裏をよぎる。空き缶を蹴り上げたいが蹴ることすらできない。
私は何も見たくなくなったのか。本当に。
私が今でも見たいと思う、会いたいと思う女はいないのか。
私が死んで二日目の深夜、昨年の落ち葉が粉々になって残る公園の一角で、私は昔出会った一人の女性のことを思い出した。私はかの女を思い出した。やせて、背が低かった。その女は一昨年、私より先に死んだ。色の白い、いつも遠くを見つめている女だった。
霞草が好きな女だった。
汚い野良猫が目の前を横切った。もっと汚く太った野良猫が、滑り台の下でニャアと鳴いた。
私はベンチから立ち上がった。
私にはまだ欲望がある。当然のことだ。私は成仏しきっていないのだ。私は元気が出てきた。明日の通夜を見てやろう。いや当然見るつもりだったが。私は何とかして私の不審死の全貌を暴き立てなければならない。
空き缶を蹴ってみたがやはり空振りした。
坂道を登ってビザ屋の二輪が現れ、公園の前を右に曲がった。エンジン音が喧しい。どうも道を間違えたようである。運転が苛立っている。引き返すため車体を反転する際、フロントライトが私の体を貫いて横切り、鉄棒の奥の何もない暗がりを照らした。
(つづく)
私の通夜は葬儀屋と美咲の打ち合わせどおり、我が家にて翌々日に執り行われた。
この日も雨であった。狐の嫁入りどころか、アスファルトに飛沫が立つほどの本降りである。私の通夜に天が涙してくれたのかも知れない。しかしそれにしても激しい。憐れみの涙というよりは嫌がらせである。私の死という穢れを、なるべく早く洗い去ってしまおうという魂胆か。くわばら、我ながら僻んだものの見方である。
あの天使の面をした魔女に「死海」を見せられて以来、私は随分鬱々として時を過ごしていた。食事排泄入浴はもちろん、夜寝る必要すらなかったので、私は小石のように時間を持て余した。かつて、時間は私の前にあって私を引き摺り回している感があった。今、時間は私の後ろにいて足枷となって私を引き留める。日中はどうしてまだ日が沈まないのかと柱時計を探した。夜はこのまま朝が来ないんじゃないかと恐怖した。霊魂生活とでも言うべき現在の環境に、私ははや倦みかけていた。
考えてみれば可笑しな話である。私は透明人間になったのだ。字義通り、まったく理想的な形で。透明人間とは都合が良いではないか。今こそ、生前内なる倫理観が歯止めをかけていたもろもろの欲求を満たす好機である。私はどこにでも行ける。どこに行けば楽しいか。低俗ではあるが、他人の私生活を覗くことくらいはすぐに思い当たる。そして実際に私は一、二度試してもみた。正直に告白するが、若い女の裸も見たし、有名な女優の寝顔も見た。しかしいずれのときも何の感慨も見出せなかった。私はすぐにそれらの行為を止めた。立派である。私は案外根が純真なのかも知れない。それとも自分の運命を思い煩うことで手一杯なだけか。あるいはあるいは。他の幽体離脱者に私の行為を見られているのでは、という危惧は大したものではないにしても、死者としては当然であろう欲望の欠落がそもそもの原因だとすれば。不能者のように何の欲情も沸かなくなったのだとすれば。それはそれで、しみじみと虚しい。満たす必要のない杯ならば満たしたいと感じないのももっともである。私が現在女の裸とか好機とか言うのは単に記憶という残滓にすがり付いているだけであり、それもいつか風化し消え去れば、そのとき私は、朽木のように感情全般を失ってしまうのか。
どうも思考が自虐的になっていけない。真夜中に公園のベンチに疲れてもいないのに腰掛けて、街燈の照らす赤煉瓦敷きの地面を眠たくもない目でじっと眺めていると、ふと、どうして自分は完全に死ねなかったのだろうという思いが脳裏をよぎる。空き缶を蹴り上げたいが蹴ることすらできない。
私は何も見たくなくなったのか。本当に。
私が今でも見たいと思う、会いたいと思う女はいないのか。
私が死んで二日目の深夜、昨年の落ち葉が粉々になって残る公園の一角で、私は昔出会った一人の女性のことを思い出した。私はかの女を思い出した。やせて、背が低かった。その女は一昨年、私より先に死んだ。色の白い、いつも遠くを見つめている女だった。
霞草が好きな女だった。
汚い野良猫が目の前を横切った。もっと汚く太った野良猫が、滑り台の下でニャアと鳴いた。
私はベンチから立ち上がった。
私にはまだ欲望がある。当然のことだ。私は成仏しきっていないのだ。私は元気が出てきた。明日の通夜を見てやろう。いや当然見るつもりだったが。私は何とかして私の不審死の全貌を暴き立てなければならない。
空き缶を蹴ってみたがやはり空振りした。
坂道を登ってビザ屋の二輪が現れ、公園の前を右に曲がった。エンジン音が喧しい。どうも道を間違えたようである。運転が苛立っている。引き返すため車体を反転する際、フロントライトが私の体を貫いて横切り、鉄棒の奥の何もない暗がりを照らした。
(つづく)
翌日雨が降り始めたのは、日が昇ってからである。昼過ぎには車軸を流すような大降りになった。先にも述べたが、私の通夜はそうした中執り行われた。いよいよ、通夜の様子について語らなければならない。
私の父方の親戚にはやかましいのが多い。その筆頭が大裕(たいゆう)叔父である。六十を超えているが、本人は二十代くらいに思っている。心の若さゆえに何をしても許されると思い込んでいる。私が十六のときに無理矢理私に酒を飲ませたのは彼である。それも、酒くらい飲めないと立派な大人になれないようなことをまことしやかに説教した。稼業の電気屋を息子に譲ってからは貧弱な泥鰌ひげを生やした。生涯の夢が引退したら鼻ひげを生やすことだったのだから、名前の割には器の小さな人間である。小さな器のくせに、その器に誰彼ともなく掬い取ろうとする。彼の理不尽な世話焼きは、毒舌の叔母をして「薮蚊よりうるさい」と言わしめた。甥であり大学教授である私は、地方の小さな電気店の元社長である彼にとって格好の暇つぶしの種であり、それは私が死んでも続くことになった。この度それがよくわかった。彼は仏壇の前の金襴菱小紋の座布団を我が指定席と見なし、他人がどれだけ焼香しにやってこようとお構いなしに、酒の入った赤い顔をしてそこに鎮座し続けながら、私の棺桶に向かって私をいびり続けたのである。
(つづく)
私の父方の親戚にはやかましいのが多い。その筆頭が大裕(たいゆう)叔父である。六十を超えているが、本人は二十代くらいに思っている。心の若さゆえに何をしても許されると思い込んでいる。私が十六のときに無理矢理私に酒を飲ませたのは彼である。それも、酒くらい飲めないと立派な大人になれないようなことをまことしやかに説教した。稼業の電気屋を息子に譲ってからは貧弱な泥鰌ひげを生やした。生涯の夢が引退したら鼻ひげを生やすことだったのだから、名前の割には器の小さな人間である。小さな器のくせに、その器に誰彼ともなく掬い取ろうとする。彼の理不尽な世話焼きは、毒舌の叔母をして「薮蚊よりうるさい」と言わしめた。甥であり大学教授である私は、地方の小さな電気店の元社長である彼にとって格好の暇つぶしの種であり、それは私が死んでも続くことになった。この度それがよくわかった。彼は仏壇の前の金襴菱小紋の座布団を我が指定席と見なし、他人がどれだけ焼香しにやってこようとお構いなしに、酒の入った赤い顔をしてそこに鎮座し続けながら、私の棺桶に向かって私をいびり続けたのである。
(つづく)
「馬鹿野郎ですからな、こいつは、まったくのところ」
後ろで聞きながらふんふん頷いているのは、叔父の腹違いの兄、私の父である。七十五になる。もうろくじじいになっても癪に障る親父である。
大裕叔父の方はと言えば、酔っ払っているのだから、後ろで誰が頷いてようがどうでもいいらしい。
外の雨音が畳にしみ入る。
「筋金入りの馬鹿野郎ですよ。稀代の馬鹿野郎だ。一人酒して急性アル中で逝っちまうなんて、そんな便利な死に方あるかってんだ。そうでしょう? 愚の骨頂じゃありませんか? ウィスキーだかブランデーだがワインだか何だか知りませんがね、大学教授ってのは見栄で酒を飲むもんだと常々思ってたけど、何だかなあ。俺がもっとしっかり酒の飲み方を教えてやりゃ良かったんだ」
誠に大きなお世話である。叔父の癖として、酔っ払うと右肩をやや下げて右肘をぶらぶらさせる。泥鰌ひげももぞもぞする。その落ち着かない姿勢がなおさら人を馬鹿にしているように見える。私は当たらないとわかっていて彼の背中を蹴ってやった。
「こいつが大学で教えてたのは、なあ、なんだったけな。兄さん。ん? 兄さんじゃだめか。美咲さん何だったっけな。美咲さん」
叔父は後ろを振り向いてまず私の親父であり彼の兄である泰蔵に話しかけたが、もうろくしている宇津木泰蔵氏は首尾一貫頷くことしかしない。仕方ないので、叔父はその後ろの美咲に声をかけた。
美咲がいる。神妙な顔をした容疑者は、いつ誂えたのか初めて見る喪服に身を包んでいる。私の死を予定して間に合わせたか。美咲はもともと黒服が似合う。陰気な女だからである。彼女は通夜の厳粛な場をかき乱すこの老人にほとほと愛想を尽かしていたので、黙ってうつむいたまま答えない。
代わりに野太い女の声が部屋の隅から答えた。私の妹である。
(つづく)
後ろで聞きながらふんふん頷いているのは、叔父の腹違いの兄、私の父である。七十五になる。もうろくじじいになっても癪に障る親父である。
大裕叔父の方はと言えば、酔っ払っているのだから、後ろで誰が頷いてようがどうでもいいらしい。
外の雨音が畳にしみ入る。
「筋金入りの馬鹿野郎ですよ。稀代の馬鹿野郎だ。一人酒して急性アル中で逝っちまうなんて、そんな便利な死に方あるかってんだ。そうでしょう? 愚の骨頂じゃありませんか? ウィスキーだかブランデーだがワインだか何だか知りませんがね、大学教授ってのは見栄で酒を飲むもんだと常々思ってたけど、何だかなあ。俺がもっとしっかり酒の飲み方を教えてやりゃ良かったんだ」
誠に大きなお世話である。叔父の癖として、酔っ払うと右肩をやや下げて右肘をぶらぶらさせる。泥鰌ひげももぞもぞする。その落ち着かない姿勢がなおさら人を馬鹿にしているように見える。私は当たらないとわかっていて彼の背中を蹴ってやった。
「こいつが大学で教えてたのは、なあ、なんだったけな。兄さん。ん? 兄さんじゃだめか。美咲さん何だったっけな。美咲さん」
叔父は後ろを振り向いてまず私の親父であり彼の兄である泰蔵に話しかけたが、もうろくしている宇津木泰蔵氏は首尾一貫頷くことしかしない。仕方ないので、叔父はその後ろの美咲に声をかけた。
美咲がいる。神妙な顔をした容疑者は、いつ誂えたのか初めて見る喪服に身を包んでいる。私の死を予定して間に合わせたか。美咲はもともと黒服が似合う。陰気な女だからである。彼女は通夜の厳粛な場をかき乱すこの老人にほとほと愛想を尽かしていたので、黙ってうつむいたまま答えない。
代わりに野太い女の声が部屋の隅から答えた。私の妹である。
(つづく)
「哲学よ哲学」
「おう由紀子ちゃんか」
「ギリシャ哲学とか何とか言ってたわ」
「由紀子ちゃんお久し振り。お前さんもちょっと見ない間に、いやこの度はまったくご愁傷様だったねえ。由紀子ちゃんかあ。わしらも年を取るわけだよなあ、兄さん。まあ由紀子ちゃん、久しぶりだ一杯飲みなよ。そうか。イギリス哲学か」
「ギリシャ。叔父さん、どうでもいいけど、そこに居座っちゃ他の人が焼香できないじゃない」
由紀子は腕組みをして立ったまま大黒柱に寄りかかり、馬鹿にした口調で言う。セピア色の偏光レンズをかけている。
一座のあちこちから失笑が上がった。由紀子は小さいころからふてぶてしい女だったが、白髪を染めるようになってからその度合いが激しくなった。彼女ももう四十である。ショートカットの美人女優を濡れ雑巾で包んで固く絞ったような顔をしている。つまり昔は割合可愛かったのだ。若い頃うぬぼれの強かった女は年を重ねると醜くなるというのは本当である。お香やら化粧品やらよくわからない怪しげなもののディーラーをしていて、旦那はインドで知り合った同じ旅行者の白人である。
小学校に上がる前から口達者で町内に聞こえていたが、インドに行って羽振りが良くなってのちは口だけでなく態度まででかくなった。その結果が必要もないのにサングラスである。実の兄が死んでも外さないとは傲岸不遜も極みに達している。
「黙らっしゃい」
叔父は一方的に姪との会話を打ち切ると、右肘を震わせながら棺桶に向き直った。
「わしはこの大馬鹿野郎の邦広と、一対一で話すことがあんだ」
チンとお鈴が鳴る。叔父が自分の話に自分で合いの手を入れているのである。
「哲学か。哲学だったな、邦広」
邦広(くにひろ)は私の名前である。
(つづく)
「おう由紀子ちゃんか」
「ギリシャ哲学とか何とか言ってたわ」
「由紀子ちゃんお久し振り。お前さんもちょっと見ない間に、いやこの度はまったくご愁傷様だったねえ。由紀子ちゃんかあ。わしらも年を取るわけだよなあ、兄さん。まあ由紀子ちゃん、久しぶりだ一杯飲みなよ。そうか。イギリス哲学か」
「ギリシャ。叔父さん、どうでもいいけど、そこに居座っちゃ他の人が焼香できないじゃない」
由紀子は腕組みをして立ったまま大黒柱に寄りかかり、馬鹿にした口調で言う。セピア色の偏光レンズをかけている。
一座のあちこちから失笑が上がった。由紀子は小さいころからふてぶてしい女だったが、白髪を染めるようになってからその度合いが激しくなった。彼女ももう四十である。ショートカットの美人女優を濡れ雑巾で包んで固く絞ったような顔をしている。つまり昔は割合可愛かったのだ。若い頃うぬぼれの強かった女は年を重ねると醜くなるというのは本当である。お香やら化粧品やらよくわからない怪しげなもののディーラーをしていて、旦那はインドで知り合った同じ旅行者の白人である。
小学校に上がる前から口達者で町内に聞こえていたが、インドに行って羽振りが良くなってのちは口だけでなく態度まででかくなった。その結果が必要もないのにサングラスである。実の兄が死んでも外さないとは傲岸不遜も極みに達している。
「黙らっしゃい」
叔父は一方的に姪との会話を打ち切ると、右肘を震わせながら棺桶に向き直った。
「わしはこの大馬鹿野郎の邦広と、一対一で話すことがあんだ」
チンとお鈴が鳴る。叔父が自分の話に自分で合いの手を入れているのである。
「哲学か。哲学だったな、邦広」
邦広(くにひろ)は私の名前である。
(つづく)
「哲学かあ。哲学ってのは何かい、邦広。電気屋の親父で一生を終えた俺には難しい世界じゃあるが、何てえか、人の生きる道を指し示すってものじゃないかい」
違う。少なくとも私は違うと思っている。哲学は学問である。学問は利便を省みない。結論が人生にとって吉と出るか凶と出るかは哲学者のあずかり知らぬところである。哲学は人生の処方箋ではない。
叔父はしきりに口元を手で擦っている。酒が切れかけたときに良くやる彼の仕種である。
またお鈴がチン、と鳴る。
「お前の哲学は、えー、てことは、何だ、酒飲んでアル中で死ぬ、っていう哲学か」
背後の面々がくすくす笑う。由紀子は当然笑っている。親父は何もわからないまま周囲に釣られて呆けた薄ら笑いを浮かべている。美咲まで、いや美咲の隣で退屈そうに黙り込んでいる愚息の博史までもが、うつむいて緩んだ顔を隠している。一族打ち揃って不届き者である。
「そんな哲学なら、ほれ、粕漬けにでもして食ってしまえ。だいたい哲学なんざ尻の青い若者が退屈紛れにやるもんだろうが。そんなもんを一生の食い扶持にするから、ろくなこたあない。ろくなこたあない証拠に、肝臓傷めてお陀仏したりするんだ」
「ほう、そりゃ厳しい御意見ですなあ」
先ほど入ってきたばかりの弔問客から茶々が入った。低い声の割に女のようなしなが入った助兵衛な口調は、まごうことなき新山大学の唐島章一郎である。雨の中を到着したばかりらしく肩を濡らしている。名古屋にいるのにすぐ飛んで来るとは、意外や彼らしからぬ殊勝さである。加賀研究室以来のなじみとは言え、生前そのような足労を私のために執る男ではなかった。今回奮発したのはさすがに私が死んだからだろう。
「あんた誰じゃい」
叔父は口を開けて背後の大男を見上げた。
(小出しにつづく)
違う。少なくとも私は違うと思っている。哲学は学問である。学問は利便を省みない。結論が人生にとって吉と出るか凶と出るかは哲学者のあずかり知らぬところである。哲学は人生の処方箋ではない。
叔父はしきりに口元を手で擦っている。酒が切れかけたときに良くやる彼の仕種である。
またお鈴がチン、と鳴る。
「お前の哲学は、えー、てことは、何だ、酒飲んでアル中で死ぬ、っていう哲学か」
背後の面々がくすくす笑う。由紀子は当然笑っている。親父は何もわからないまま周囲に釣られて呆けた薄ら笑いを浮かべている。美咲まで、いや美咲の隣で退屈そうに黙り込んでいる愚息の博史までもが、うつむいて緩んだ顔を隠している。一族打ち揃って不届き者である。
「そんな哲学なら、ほれ、粕漬けにでもして食ってしまえ。だいたい哲学なんざ尻の青い若者が退屈紛れにやるもんだろうが。そんなもんを一生の食い扶持にするから、ろくなこたあない。ろくなこたあない証拠に、肝臓傷めてお陀仏したりするんだ」
「ほう、そりゃ厳しい御意見ですなあ」
先ほど入ってきたばかりの弔問客から茶々が入った。低い声の割に女のようなしなが入った助兵衛な口調は、まごうことなき新山大学の唐島章一郎である。雨の中を到着したばかりらしく肩を濡らしている。名古屋にいるのにすぐ飛んで来るとは、意外や彼らしからぬ殊勝さである。加賀研究室以来のなじみとは言え、生前そのような足労を私のために執る男ではなかった。今回奮発したのはさすがに私が死んだからだろう。
「あんた誰じゃい」
叔父は口を開けて背後の大男を見上げた。
(小出しにつづく)
「この度はご愁傷様です。私は亡き息子さんと同じく、粕漬けにする学問を仕事としている者でして」
「あんたも哲学か」
「まあ哲学です。先週学会の仕事で上京した際、こちらに御呼ばれになりました。宇津木君とはそれ以前から懇意にしていただいていた者です。ちょっと御焼香をいいですかな」
「馬鹿野郎、わしは邦広と一対一で話をしてるんだ」
馬鹿野郎が挨拶の叔父でも、さすがに行き過ぎである。堪らず声をかけたのは、美咲である。
博史ではなく彼女が喪主らしいから、一応喪主としての勤めを意識したのであろう。
「叔父さん。いい加減にしてください。すみません、これは故人の叔父です。すみません、何分酔ってますので」
「馬鹿野郎、大事な甥が死んだのに酔っ払って何が悪いんだ。死んだやつにゃ、哲学より念仏だろうが。坊主をもう一度呼び返せ。あんなおざなりの読経で済ませやがって。あれで三十万か? いやこりゃ不謹慎。不謹慎だが、しかし馬鹿野郎ってんだ。美咲さん、美咲さん、あんたも亡き夫のことを悲しむなら、酔え。いや済みません、ええと、済みませんなあ。御仁、からすみさんとか申されたっけなあ」
「唐島です。私は酒のあてじゃありませんのでね」
失笑がまた広がる。私の通夜だというのに場は和やかになるばかりである。
(小出し小出し)
「あんたも哲学か」
「まあ哲学です。先週学会の仕事で上京した際、こちらに御呼ばれになりました。宇津木君とはそれ以前から懇意にしていただいていた者です。ちょっと御焼香をいいですかな」
「馬鹿野郎、わしは邦広と一対一で話をしてるんだ」
馬鹿野郎が挨拶の叔父でも、さすがに行き過ぎである。堪らず声をかけたのは、美咲である。
博史ではなく彼女が喪主らしいから、一応喪主としての勤めを意識したのであろう。
「叔父さん。いい加減にしてください。すみません、これは故人の叔父です。すみません、何分酔ってますので」
「馬鹿野郎、大事な甥が死んだのに酔っ払って何が悪いんだ。死んだやつにゃ、哲学より念仏だろうが。坊主をもう一度呼び返せ。あんなおざなりの読経で済ませやがって。あれで三十万か? いやこりゃ不謹慎。不謹慎だが、しかし馬鹿野郎ってんだ。美咲さん、美咲さん、あんたも亡き夫のことを悲しむなら、酔え。いや済みません、ええと、済みませんなあ。御仁、からすみさんとか申されたっけなあ」
「唐島です。私は酒のあてじゃありませんのでね」
失笑がまた広がる。私の通夜だというのに場は和やかになるばかりである。
(小出し小出し)
叔父は白髪頭をぽんぽん叩きながら急にへりくだった。
「唐島さんか、どうか、ほらどうか、この哀れなわしの甥に御焼香してくだされ。わしは、うん、ええと、喉が渇いたからビールをもらう」
自らの体を転がすようにして、叔父はようやく座を譲った。代わって唐島章一郎が仏壇の前に座る。どこで教わったか知らないが、私の親族に対する見せつけのように金襴の座布団を外して慎ましく座る。焼香を済ますと、嘆息して我が棺桶を見つめた。黙っているがどうせろくなことを考えていまい。本をついに一冊も出せずじまいだった私を、心中であざけっているのか。
背後を振り返る。
「仏の顔は拝めませんか」
「はあ、それが」
家政婦の大仁田が太った図体を揺らしながら歩み出て、唐島に耳打ちした。耳打ちといっても平生が声のでかい女だから、耳打ちにならない。メガホンを口に添えているようなものである。
「お亡くなりになるとき、何だかその、苦しまれでもしたのでしょうか、はい、少々歪んだ感じで、その、硬直なされているので、はい、できれば・・・はい、でも、それでも、強いてとおっしゃられれば」
「いや、じゃあ遠慮しておきましょう」
唐島は何の未練もないように手を振ってみせた。
「うん、先生、それよりこっちへ来て一緒に飲みましょう」
大裕叔父が唐島に手招きをする。叔父は弔問客をみんな飲み会に引っ張りこむ算段らしい。
(ちいとずつ つづく)
「唐島さんか、どうか、ほらどうか、この哀れなわしの甥に御焼香してくだされ。わしは、うん、ええと、喉が渇いたからビールをもらう」
自らの体を転がすようにして、叔父はようやく座を譲った。代わって唐島章一郎が仏壇の前に座る。どこで教わったか知らないが、私の親族に対する見せつけのように金襴の座布団を外して慎ましく座る。焼香を済ますと、嘆息して我が棺桶を見つめた。黙っているがどうせろくなことを考えていまい。本をついに一冊も出せずじまいだった私を、心中であざけっているのか。
背後を振り返る。
「仏の顔は拝めませんか」
「はあ、それが」
家政婦の大仁田が太った図体を揺らしながら歩み出て、唐島に耳打ちした。耳打ちといっても平生が声のでかい女だから、耳打ちにならない。メガホンを口に添えているようなものである。
「お亡くなりになるとき、何だかその、苦しまれでもしたのでしょうか、はい、少々歪んだ感じで、その、硬直なされているので、はい、できれば・・・はい、でも、それでも、強いてとおっしゃられれば」
「いや、じゃあ遠慮しておきましょう」
唐島は何の未練もないように手を振ってみせた。
「うん、先生、それよりこっちへ来て一緒に飲みましょう」
大裕叔父が唐島に手招きをする。叔父は弔問客をみんな飲み会に引っ張りこむ算段らしい。
(ちいとずつ つづく)
「そうですか、では、故人の弔いのためにも一杯呼ばれましょうかな。」
「ええ、ま、どうぞ」
「では、どうも」
隠しようもない酒好きの喉が動く。最早こうなると町内の寄り合いと何の相違もない。棺桶を見つめて故人を偲ぶような者など誰もいない。畢竟、私の亡骸は客寄せパンダほどにも来客の関心を留められないということなのだ。屋根を全部ひっぺがえして、奴らをずぶ濡れにしてやりたい気分である。それが叶わぬならせめて私も一杯飲みたい。
「しかし何ですなあ」
唐島は一杯目の喉越しに満足の嘆息を漏らして室内を眺め回す。
「以前お邪魔したときも驚きましたが、畳の部屋がこうしてぶち抜きでニ間あるなんて、東京じゃあほんと珍しいでしょう」
「ま、珍しいですな」
「格式のあるお家というのは、やはり何ともいいですな。どうせ弔われるんならこういうところで弔われて、故人も幸せでしょう。この仏壇は借り物ですか」
「借り物に決まってまさ。日ごろ信心のない邦雄がどうして前もって揃えたりしますかってんだ」
叔父は固いするめを奥歯で引きちぎる。「広いのは広い。おっしゃる通り。この間が十畳、奥も十畳。いや床の間も入れれば十二畳ですか。よく見つけたと思いまさあね。先々代の持ち主が相当の資産家だったらしいですな。こんなに広いんだから、兄貴を引きとりゃいいのに。兄貴も強情だから嫌がって、それで結局つまんねえ、心臓発作だが肝臓発作だかしたときにゃ、家だけ広くて周りに誰もいない、なんてことになるんで。ま、美咲さんがその日に限って実家に戻ってたのが運が悪いと言やあ、だいたいが生まれつき運の悪い男でしたからなあ」
「そうですかね。肝臓発作はしないと思いますが。まあ、運が悪いと言えば悪かったのかな。でもどうですかねえ。哲学科の教授のポストとかは私より五年も早くもらいましたからねえ。五年も早く。論文二つで。公務員の身分でこんな邸宅も手に入れたんだし、運がもともとから悪かったとも・・・」
「ふん、その哲学ですな。すべての元凶は。だいたい唐島さん、唐島さんで合ってますな、唐島さん。哲学ってのはそもそも何を研究するもんですか」
どうも叔父は議論を挑みたがっている。しょせん、彼にとっては哲学も一時しのぎの酒の肴である。
唐島もその雰囲気は十分察している。とは言え何分、聴衆が他にも十名程度はいようか。ここは一つ自分の知名度を上げようとくらいに図って、答えを慎重に思案している。
「そうですねえ、そういう正面切った質問をされると。私は唐島で合ってますよ。そうですな、そりゃ専門により様々です。何を研究するかってことはね。まあ、そうですなあ。私の専門のことなどを話したっても面白くないでしょうから、一つこういうお答えをしましょうかな。これは無き宇津木君の研究のサブテーマ的なところとも噛み合うと思うのですが。ま、行き詰まりです」
「ほう行き詰まり」
「行き詰まりです」
(つづく)
「ええ、ま、どうぞ」
「では、どうも」
隠しようもない酒好きの喉が動く。最早こうなると町内の寄り合いと何の相違もない。棺桶を見つめて故人を偲ぶような者など誰もいない。畢竟、私の亡骸は客寄せパンダほどにも来客の関心を留められないということなのだ。屋根を全部ひっぺがえして、奴らをずぶ濡れにしてやりたい気分である。それが叶わぬならせめて私も一杯飲みたい。
「しかし何ですなあ」
唐島は一杯目の喉越しに満足の嘆息を漏らして室内を眺め回す。
「以前お邪魔したときも驚きましたが、畳の部屋がこうしてぶち抜きでニ間あるなんて、東京じゃあほんと珍しいでしょう」
「ま、珍しいですな」
「格式のあるお家というのは、やはり何ともいいですな。どうせ弔われるんならこういうところで弔われて、故人も幸せでしょう。この仏壇は借り物ですか」
「借り物に決まってまさ。日ごろ信心のない邦雄がどうして前もって揃えたりしますかってんだ」
叔父は固いするめを奥歯で引きちぎる。「広いのは広い。おっしゃる通り。この間が十畳、奥も十畳。いや床の間も入れれば十二畳ですか。よく見つけたと思いまさあね。先々代の持ち主が相当の資産家だったらしいですな。こんなに広いんだから、兄貴を引きとりゃいいのに。兄貴も強情だから嫌がって、それで結局つまんねえ、心臓発作だが肝臓発作だかしたときにゃ、家だけ広くて周りに誰もいない、なんてことになるんで。ま、美咲さんがその日に限って実家に戻ってたのが運が悪いと言やあ、だいたいが生まれつき運の悪い男でしたからなあ」
「そうですかね。肝臓発作はしないと思いますが。まあ、運が悪いと言えば悪かったのかな。でもどうですかねえ。哲学科の教授のポストとかは私より五年も早くもらいましたからねえ。五年も早く。論文二つで。公務員の身分でこんな邸宅も手に入れたんだし、運がもともとから悪かったとも・・・」
「ふん、その哲学ですな。すべての元凶は。だいたい唐島さん、唐島さんで合ってますな、唐島さん。哲学ってのはそもそも何を研究するもんですか」
どうも叔父は議論を挑みたがっている。しょせん、彼にとっては哲学も一時しのぎの酒の肴である。
唐島もその雰囲気は十分察している。とは言え何分、聴衆が他にも十名程度はいようか。ここは一つ自分の知名度を上げようとくらいに図って、答えを慎重に思案している。
「そうですねえ、そういう正面切った質問をされると。私は唐島で合ってますよ。そうですな、そりゃ専門により様々です。何を研究するかってことはね。まあ、そうですなあ。私の専門のことなどを話したっても面白くないでしょうから、一つこういうお答えをしましょうかな。これは無き宇津木君の研究のサブテーマ的なところとも噛み合うと思うのですが。ま、行き詰まりです」
「ほう行き詰まり」
「行き詰まりです」
(つづく)
呑み助二人が調子を合わせ始めた。唐島の舌も滑らかになる。
「行き詰まりです。現代はいろいろな場面で行き詰まりを感じております。発展や進歩を無条件に信じて歩めた時代とはちょこっと様子が異なっている。環境問題しかり。環境問題は宇津木君もいつだったか紀要に書いてましたな。そういうグローバルなところへ行かなくても、日常社会を覗けばそこここに行き詰まりが見える。凶悪犯罪しかり。子どもが子どもを殺したりとか、何だか、昔は到底犯罪を犯しそうになかった層の社会構成員たちが犯罪者に駆り立てられている。それも昔の犯罪と違って、金目当てじゃない。ただ漠然と人を殺したくなったから殺すってんだから、物騒ですなあ。明らかに社会が病んでるんですよ。心に爆弾を抱えたまま、普段は何食わぬ顔をして街を歩いている人が、少なからぬ数いる。広く世界を見渡すと、南北問題は歴然として続いている。宗教対立、民族対立。二十世紀は何も解決しなかったんです。ええ。誇張を許してもらえば、二十世紀は何一つ解決しなかったんですよ。そしてすべてのつけを払わされるべき二十一世紀が来た。『つけ』というのがつまりは、欧米社会主導の世の中の行き詰まりですな。ま、経済的に言やあ資本主義の行き詰まりです」
「そこだ。そこですわ。わしもそこを考えてたんです」
資本主義のビールを飲んでいて何が資本主義の行き詰まりか。するめばかり噛み千切っていて何がわしもそこを考えていた、か。ついでながら解説すれば、人の話を途中で強引に自分の話にすり替えようとするのは、大裕叔父の昔からの悪い癖である。しかし唐島もそこは百戦錬磨で、なかなか素人に主導権を引き渡すことはしない。
「そこをお考えでしょう。そうなんです。みんな、そこを気にするようになってきてはいるんですよ。人々が行き詰まりに気づき始めた。なんかこの世の中がしっくりこない。何かを変えなくちゃいけない気がする。そうしないととんでもないことになる気がする。でも、何をどう変えていいのかわからない。そりゃそうです。人々はみんな、今の社会の常識、という枠組み、これを我々はパラダイム、と言ったりしますけどね。まあ哲学用語です。その常識の枠組みの中で、今の社会を批判しようとしても、無理なんです。難しいんです。野球をしている人が、次の打席にサッカーボールを蹴ったらどうかなんて考えつかないのと一緒です。常識という社会のルールは、意外なところでわれわれの言動をぎゅっと縛り付けています。そこで哲学です」
唐島は旨そうに二杯目のビールを喉に流し込んだ。
「哲学者は、そもそも、という基礎の部分から疑ってかかります。常識を疑います。今の世の中で当然のように思われていることを疑います。疑うことが哲学の仕事の重要な一つです」
「疑うこと」
「ええ」
「ほお」
叔父は急に話の主導権を明け渡してもらって、逆に戸惑っている。
「疑うことですか。ふむ。人に生きる道を指し示すのとは、違いますかな」
「違いますね」
女の笑い声がして、二人の会話は途切れた。
(つづく)
「行き詰まりです。現代はいろいろな場面で行き詰まりを感じております。発展や進歩を無条件に信じて歩めた時代とはちょこっと様子が異なっている。環境問題しかり。環境問題は宇津木君もいつだったか紀要に書いてましたな。そういうグローバルなところへ行かなくても、日常社会を覗けばそこここに行き詰まりが見える。凶悪犯罪しかり。子どもが子どもを殺したりとか、何だか、昔は到底犯罪を犯しそうになかった層の社会構成員たちが犯罪者に駆り立てられている。それも昔の犯罪と違って、金目当てじゃない。ただ漠然と人を殺したくなったから殺すってんだから、物騒ですなあ。明らかに社会が病んでるんですよ。心に爆弾を抱えたまま、普段は何食わぬ顔をして街を歩いている人が、少なからぬ数いる。広く世界を見渡すと、南北問題は歴然として続いている。宗教対立、民族対立。二十世紀は何も解決しなかったんです。ええ。誇張を許してもらえば、二十世紀は何一つ解決しなかったんですよ。そしてすべてのつけを払わされるべき二十一世紀が来た。『つけ』というのがつまりは、欧米社会主導の世の中の行き詰まりですな。ま、経済的に言やあ資本主義の行き詰まりです」
「そこだ。そこですわ。わしもそこを考えてたんです」
資本主義のビールを飲んでいて何が資本主義の行き詰まりか。するめばかり噛み千切っていて何がわしもそこを考えていた、か。ついでながら解説すれば、人の話を途中で強引に自分の話にすり替えようとするのは、大裕叔父の昔からの悪い癖である。しかし唐島もそこは百戦錬磨で、なかなか素人に主導権を引き渡すことはしない。
「そこをお考えでしょう。そうなんです。みんな、そこを気にするようになってきてはいるんですよ。人々が行き詰まりに気づき始めた。なんかこの世の中がしっくりこない。何かを変えなくちゃいけない気がする。そうしないととんでもないことになる気がする。でも、何をどう変えていいのかわからない。そりゃそうです。人々はみんな、今の社会の常識、という枠組み、これを我々はパラダイム、と言ったりしますけどね。まあ哲学用語です。その常識の枠組みの中で、今の社会を批判しようとしても、無理なんです。難しいんです。野球をしている人が、次の打席にサッカーボールを蹴ったらどうかなんて考えつかないのと一緒です。常識という社会のルールは、意外なところでわれわれの言動をぎゅっと縛り付けています。そこで哲学です」
唐島は旨そうに二杯目のビールを喉に流し込んだ。
「哲学者は、そもそも、という基礎の部分から疑ってかかります。常識を疑います。今の世の中で当然のように思われていることを疑います。疑うことが哲学の仕事の重要な一つです」
「疑うこと」
「ええ」
「ほお」
叔父は急に話の主導権を明け渡してもらって、逆に戸惑っている。
「疑うことですか。ふむ。人に生きる道を指し示すのとは、違いますかな」
「違いますね」
女の笑い声がして、二人の会話は途切れた。
(つづく)