た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

教師論

2014年07月16日 | essay
 教育者の不祥事が後を絶たない。それも信じられないような稚拙な不祥事ばかりである。学校に対する世の不信感はますます募る。親が教師を信用しないから、子が信用するはずはない。「先生」という敬語表現は地に落ちた。勉強は塾で教えてもらうからなるべく宿題を出さないで欲しい。躾けはして欲しいが手を上げてはだめ。叱り過ぎてもだめ。うちの子の服装は親の自由にさせて。でも規律を守らせるのはあなた方の役目よ・・・・。結果、教育者は何一つ思い通りにさせてもらえないがどんな些細なことにも責任を取らされるという劣悪な環境で教鞭を取らざるを得なくなり、急速にやりがいを失い、自暴自棄に走る。また一件、不祥事が増える。悪循環である。

 問題修復に必要な事は何か? 教育者の再教育? 教育制度の再編? 具体的な方策は数多あろう。しかしいずれにせよ、失われたもの、その中でも失われるべきではなかったものを、取り戻すことが最優先ではなかろうか。

 それは、教育者の尊厳ではないか。

 誤解を取り除きたい。戦前の軍国主義のような、鬼教師の復活を唱えているわけではない。また、尊厳も何も教育者がしっかりしてないせいだという意見に対しては、尊厳とは、内なる努力と外から寄せられる敬意によって成り立つものだと答えたい。ナイチンゲールを嚆矢とする看護婦制度が旨く機能したのは(時代による変遷はともかく、少なくともある時期に限って)、何より、ナイチンゲール憲章を土台として、彼女たちに尊厳があったからではないか。そして、世の中が広くその存在価値を認め、賞賛したからではないか。

 今の日本の学校教育に関しては、遠からずいつの日か、学校不要論まで飛び出すのではないかという懸念さえ湧きおこる。学校の要不要に関しては、本稿では口をつむぐ。あくまで、今の学校教育を存続させるなら、という前提に立っての議論である。それならば、教師たちに、教師としての尊厳を取り戻させることが必須課題ではないか。

 では具体的にどうやって彼らに尊厳を取り戻させるのか?

 今、彼らはあまりに雑事に追われ、教育の手段を奪われ、衆人環視に晒され、自由がない。

 一つ、具体的な例を上げる。

 教育者の体罰について。連日新聞を賑わす体罰事件は、ほとんどが犯罪か、それに近い物であろう。それらは一方的で、やられる生徒側はその理由すらわからず、理不尽で、過度である。それら犯罪的体罰の阻止はいつだって大事な社会的課題である。

 しかし、である。生徒側も納得し、むしろ生徒と教師の信頼関係を深めるようなビンタや正座は、確かに、かつて、存在した。もちろん、行き過ぎた体罰も数多く存在した。だが大事なのは、そのバランスを見極めるのは、教師の裁量に委ねられていたのである。やってはいけない体罰と、やるべき躾けの境界線はあり、そのどちらに属するかの判断力は、教師という聖職が含む職務の一つとされていたのである。そう、ちょうど、医者に、どの処置が患者にとって一番いいかの判断を任せられているように。

 それが今は、まるでちょっとでも触れるとビリっとくる電気柵のように、少しでも体罰らしき振る舞いをすると、世間こぞってやり玉に挙げて騒ぎ立てる始末である。教師擁護論はほとんど出ない。教師たちはおびえて、生徒に手を触れることすらできなくなっている。繰り返し言う。過ちを犯す教師はいる。しかし、必要なのは、教師という聖職の意識付けを含めた教育養成制度の改革であって、マスコミやPTAが主導する公開裁判ではない。文科省は、体罰に対する判断はある程度現場の教師に委ねる、という方針を公にしてもいいのではないか。ただしもちろん、単なる暴力に対しては厳粛な措置が必要であるし、何より、判断を委ねても安心できるような、尊厳のある、優秀な教師の育成を国の最重要課題にしなければならないのであるが。

 生徒は、教師の目を見る。この先生を本気で怒らすと、何が起こるかわからない、という恐れは、子供が大人から教育を受ける場合は、当然ながら大切である。親だってそう思わせる目で子を見返す。それすらできない今の教師たちは、一体どんな目で、大人を試そうとする彼らの目を見返せばよいのだろうか。
 

 
 
 
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7月中旬

2014年07月16日 | essay
 早朝の犬の散歩を日課にして数年経つ。眠い目を擦りながら、起きがけの熱い珈琲一杯もそこそこに散歩用の服に着替えていると、犬の方は待ちわびたと言わんばかりにきゃんこらきゃんこら鳴く。実に耳にうるさい。黙れと一喝入れても、一喝の意味を取り違えているのか、尚更きゃんこらきゃんこら鳴く。まったく幼児教育の失敗である。駄犬に育ってしまった。駄犬を紐でつないで外に出ると、午前七時にしてすでに夏の陽射しである。

 観察していると面白いもので、犬は路上の物を何でも嗅ぎたがるが、道端の野花や民家の玄関の鉢植えの花なども一つ一つ嗅ごうとする。してみると案外風流を解する犬なのかも知れない。数年前は、道に落ちたティッシュでもボールペンでも何でも口に咥えて食べようとするそれこそ駄犬であったが、年と共にさすがにその癖は無くなった。雌ということもあり、花を愛でるような乙女心が芽生えてきたか。しかし観察を進めるに従い、やはりきゃつの目的はすべからく、どこで「大」と「小」をするかに尽きておることが判明するのであり、糞袋を手で広げながら、所詮畜生は畜生だと思い返すのであった。
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