た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
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桜三景

2018年04月19日 | essay

 今年は桜をいろいろと見た。

 始まりがそもそも例年より早かった。三月上旬、伊豆を旅した際、河津桜の終わりかけに出くわしたのである。ぼんやりと生暖かい南国の空気の中に濃いピンクが揺らめいていた。花見が一足早くできたという喜びよりも、どちらかというと違和感を覚えたのが正直なところである。私の生きてきた歳時記の中で、三月上旬というのは、桜の時候としてはあまりに早すぎたのであろう。

 信州に戻って花を見直すには、それから一か月を待たなければいけなかった。

 それでもいつもより咲き始めが早いと知り、慌てて義母を連れ出したのは、兎川寺の枝垂れ桜を見せるためである。

 高齢の義母はなぜか兎川寺の桜を見たがる。他にも桜はいろいろあるだろうに、近所の小さな寺の一本ばかしの枝垂れ桜に執着するのである。若い頃から見続けた桜なのであろう。毎年毎年同じ桜を見続けることで、自分の中で何かを確認しているのかも知れない。枝垂れ桜はソメイヨシノより早い。うかうかしているとすぐに見頃を過ぎてしまう。

 妻は仕事。義母と私と二人だけの短いドライブである。こういうことをするのも、病院に連れていくか兎川寺の花見くらいである。

 枝垂れ桜は義母よりはるかに長い歳月を生きて、まるで這いつくばるように長い枝を四方に垂らし、淡い色の可憐な花をめいっぱい咲かせていた。

 改めて近くから見上げると、なるほど立派な桜である。大地へ向かって咲く桜が、青い空に不思議と似合う。綺麗ですね、と義母に言うと、ああ、今年も見れてよかった、ありがとうございます、と返ってきた。

 少し他人行儀でぎごちない分、花を見上げる時間は長い。これはこれでなかなか味わい深い花見である。

 松本城の桜も散り始めた休日、格別することもないので、妻と車でなんとなく南下をした。途中、辰野町で桜のアーケードに巡りあった。

 道路の両脇から空が見えないほど完全に覆い被さった桜並木で、それは息を呑むほどに美しかった。西洋の宮殿の回廊を進んでいるような絢爛豪華さがあった。とくに観光名所でもないのか、なんの標識も看板も見当たらない。あんまり不思議な思いがしたので、引き返して二度くぐった。

 なんとなくの南下は結局、高遠まで行き着いた。城址公園の桜は外からほどほどに見て済まし、高遠焼きを買って帰った。

 桜はやはり偶然の出会いがいい。

 最後に、遊び仲間三人の毎年恒例の花見。これはよほど日頃の行いの悪い三人が寄り集まっているらしく、当日は冷たい風が吹き、花見どころではなかった。急遽目的地を温泉に変更。

 三人中最高齢者の鶴の一声で、箕輪町の『ながたの湯』へ。車を運転するのは、仕事もあり酒の飲めない最年少の私である。箕輪町と言えば辰野町の次。なんだか同じ道を何度も通っている気がする。だったらついでにと、寄り道して辰野町の桜のアーケードをくぐった。これで三度目である。

 先輩二名は道中から酔っぱらって、花より団子、団子より酒肴、といった体である。それでも温泉場には桜が咲き、食堂で花見をしながら宴会をすることができた。小雨がぱらついたが、ガラス越しなのでぬくぬくと飲める。運転手付きで温泉につかって花見酒。彼らにとってこれ以上の贅沢はないだろう。案の定、しばらくすると桜ほど綺麗ではないピンクに染まった野郎二人が出来上がった。

 これはこれで、また一つの風情であろうか。

 

 

    濡れそぼち 犬も見上げる 花のした

 

コメント
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