一年に一度、旅をしなければ───それも必ず一人旅だ───自分の精神のどこかが異常を来してしまいそうな気がする。気がするだけかも知れない。そういう風な自分でありたい、という願望に過ぎないかも知れない。人生において旅をし続けざるをえない男、といったような。
いずれにせよ、世間は相変わらずコロナコロナで旅どころではない。それでも終息の見えてきたこの春、電車に乗って一人旅をした。
ただし日帰りである。一泊すれば感染のリスクが高まる、と考えている辺りがすでに旅人らしからぬ。地元信州を出なければリスクを極力抑えることができる、となると、さらにさもしい。この場合のリスクとは、どちらかと言うと、感染よりも、感染した時浴びる世間の批判の方である。こうなると、もはや旅人ではない。そんなに安全志向なら、旅などしなければいいのだ。
それでも旅人のフリをしたいらしい。旅人であることを否定したら、自分の心に着せた鎧の大きな一部分が欠落するような不安を覚えるのだろう。
自意識のために、旅をするのだ。
今回選んだ場所は、信州の最南端、飯田。鈍行電車で片道三時間。一日で往復するなら六時間。四十後半にはなかなかきついが、それくらいが達成感を味わえていい。
飯田駅に降り立ったのは、昼前。平日のせいか、人はほとんど歩いていない。車さえあまり見かけない。
だだっ広い道路を自分専用の歩行者天国みたいに我が物顔で歩いていたら、だんだん気分が良くなった。
日差しが暑い。上着を脱いで手に持つ。
交差点で小さな饅頭屋を見つけた。真面目そうな商売である。帰りに土産をここで買おうと算段する。去年暮れまで同居していた亡き義母は、甘い物が大好物で、よく買って帰ってあげたものだ。もう、持って帰っても、食べる人がいなくなった。それでも構わない。買おう。
細い路地を抜ける。猫に見つめられる。また大通りに出る。
市街地を歩き続けること半時、動物園にぶつかった。
動物園か。何年ぶりだろう。入場無料の看板を見て中に入る。
園と言うよりは、牛舎のような手狭なスペースに、イノシシやアライグマやムササビが入っている。観ている人は小さな子を連れた母親が二組くらいである。
ぐるっと回ったら、鹿に出会った。
遠い目をしている。当たり前だが、表情がない。感情も、あるとすれば、ずっと昔に失っている気がする。私を見ているのか、私の背後を見ているのか。とにかくじっと見つめて動かない。剥製と変わらない。だが生きている。
猟銃に狙われているのを知りながら、村を見つめて佇む鹿の詩を思い出した。いい詩だった。誰が書いたのかは覚えていない。
覚悟、というものについてひとしきり考えた。あるいは、諦念、というものについて。
動物園を出て、さらに歩いた。駅でもらった観光地図にミュージアムがあったので、立ち寄る。菱田春草の絵を見る。ロビーの向こうで、巨大な恐竜の骨が来訪者を見下ろしている。もし目玉があったなら、あの鹿と変わらない色をしていたろう。
そろそろ歩きくたびれたので、温泉場に向かった。飯田城温泉という。天空の城、とまで歌っている。大層なことである。とにかく展望がいいらしい。
大浴場に入ると、確かに市街地を見下ろせた。だがガラスが湯気で曇る。露天風呂は小さかったが、そちらの方がよく見下ろせた。
知らない街なので、どこをどう見ればいいかはよくわからない。山がある。家がある。道路がある。車が走っている。ぼうっと眺めていたら、いつしか、自分の目があの鹿の目と同じになっているのではないか、ということに思い至った。
湯上りに、併設された飲み屋に入り、生ビールを注文した。店員が大阪出身らしく、ノリがいい。旅先でしたい会話は、そこですべて済ませた。調子に乗って何杯か飲んだ。
今回の旅はこんなものだろう。日帰りだから、致し方ない。
酔っぱらって駅に向かう途上、饅頭を買い求めることだけは忘れなかった。