世界は一つしかないが、それを観る人は無数である。
ある人は世界を丸い、と観る。ある人は四角く観る。慈しむ人もいれば、唾を吐く人もいる。世界観は人の数だけある。同じ人でも時を経てころころと変わる。みながいつでも同じにしか世界を観なくなれば、面白くなかろう。かと言って誰ともどんな部分でも共感できなければ、なお面白くなかろう。
そこが芸術の難しいところだと思う。
蓼科山に登った。
麓から仰ぎ見れば、長いスカートの裾を広げた貴婦人のようであるが、登ってみれば、岩のゴロゴロした急登が真っ直ぐ頂上に向かって伸びているだけの、なかなかしんどい山である。知人のMさんと、私の妻と、三人でこの山に登った。Mさんは私より二回り年上で古希を過ぎているが、いまだに健脚である。何でも高校時代、登山部に所属していたらしい。ついでに毒舌の方も健在である。自分は年下であるし、軽率でもあるから、よくMさんにやり込められる。自分が書き散らしたものをその度に見てもらっているが、大概けなされる。「あれは駄目だ」と、Mさんは太い声ではっきり言う。たまに褒められることもある。
今回の山登りはこちらから声をかけた。
新緑の眩しい季節であった。日曜日なので登山客が多い。びっしりと苔むした森が、ぞろぞろ列をなして登る人間たちを黙って見送る。岩は登りにくい。登りにくいが登らなければ、何をしに来たことにもならない。青空に近いところで小鳥が、ピーッと鳴く。
岩から岩へひたすら跨ぐのもやがて飽きてくる。私はMさんに話題を振った。
「最近映画は見ていますか」
Mさんは映画好きである。
「うーん、去年はほとんど観に行ってない。これというのがなかった」
「小説はどうですか。読んでますか」
Mさんは読書家でもある。
「ああ。相変わらず乱読だ」
妻が後方に遅れ気味なので、二人とも立ち止まって振り返る。砂浜の小石ように煌めく街並みが遥か遠くに沈み、さらに遠方には、雪を被った連山が空に浮かぶ。
Mさんは帽子を取って額の汗を拭う。
「だが、SFはどうも苦手だな」
私は彼を見る。
「そうですか」
「映画でもそうだが、空を飛んだり、鉄砲玉を避けたりするのはどうも、な」
「私はそういうのも好きですけどね」
山の高いところに来て、二人の意見は食い違う。この違いは何だろうと思う。
妻が追い付くのを待って、再び登り始める。今度は私の歩みが遅れる。
この違いは何だろう。なぜ私には受け付けて、Mさんに受け付けないものがあるのか。この差は何か。年齢か。いや、Mさんの口調では、若い頃から受け付けなかったようだ。では年齢ではなく、時代か。
生きてきた時代。そういうことか。
私が子どもの頃は、ウルトラマンがあった。仮面ライダーがあった。宇宙戦艦ヤマトがあり、ドラえもんがあり、ガンダムがあった。空想の世界で何でもできた。現実ではありえない世界に遊ぶことが、求められた。そういう環境で育った少年と、朝から家の田仕事を手伝い、暇ができたら野山を駆け巡っていた少年(Mさんはそういう幼少期を過ごしたらしい)とでは、大人になってからでも、共感の適用範囲が異なるのかも知れない。惑星が一つ破壊されるような宇宙空間での激しい戦闘に私は心打たれるが、Mさんはそんなものがピンと来ないのだ。もっと土の匂いがして、あざを作り、心の底から叫ぶものに共感を覚えるのだ。
だとすれば、芸術は、生まれ育った環境にずいぶん制限を受けることになる。難儀なことだ。
山頂付近には、五月下旬でも雪が残っていた。雪の上に立って眺める景色は、薄青い峰が幾つも折り重なり、荘重なバロック音楽を聴いているようであった。
美しいものは、誰が見ても美しい。
これもまた、当たり前の事実である。山に登るたびに、そう思う。何が美しいのかは説明しきれない。どうして山々を見ると感動するのか、小鳥のさえずりや木の葉の風に揺れる音がなぜ心地よいのか、考えれば考えるほどわからなくなる。ただ、そういうものを美しいと思える環境に自分が生まれ育った、としか言いようがない。
また環境か。ちぇっ。
妻がくさめをした。Mさんは遠くを眺めながら煙草をふかしている。
私は首を振った。
仕方ない。振り出しに戻ろう。
登山とはまた、つねにそうしたものなのだから。