温かい蕎麦を食べるのは滅多にないのだが、唯一美味
しいと思えるものが「鰊そば」。
基本的に蕎麦が美味しい場合は、「もり」に限る。
天麩羅とかそういうものは、救済措置的に蕎麦自体が
美味くないときに必要となるアイテムだ。
つまり、天麩羅でどうにか流し込むわけだ。
こういう場合は、勿論温かいのが条件。
その延長線上に、立ち食いそばというのもある。
これはもう蕎麦を味わうと言う感覚ではなく、掻き揚
げと葱もたっぷり入れ(この場合七味も)、蕎麦とは
別物として食べる。
これはこれで結構食べられる。
「蕎麦から遠くはなれて」だが。
で、本来の蕎麦だ。
飽くまでも、一年を通して「もり」なのだが、そこは
人間、たまに「色物が」ほしくなる。
それが「鰊そば」なのだ。
嘗て、本場の京都で食べて、蕎麦自体の味はきわめて
普通なのだが、甘辛く煮た身欠き鰊が結構合う、と思
った。
ホット蕎麦でそう思ったのは、「鰊そば」が初めてだ
った。
以来、たまに欲するようになった。
柚子などが薬味にあると更に嬉しい。
いずれにしろ色物なので、蕎麦自体の美味さはあまり
重要ではない。
乾麺でもノープロブレムかも。
でも、最低限の味は必要か。
しかし、こういう食べ方が確立されていると言うこと
も、京都の食文化の高さを表しているということなの
だろうか。
身欠き鰊と蕎麦を合わせる、この発想が底力というも
のか。
以前、有名店のパック入りの鰊そばセットをお土産で
いただいたが、味的な違いはそう大きくはなく、どこ
で食べてもそれなりの味になっているものと認識した。
つまり、余程身欠き鰊の味付けがひどくなければ、充
分食べられるという、許容範囲の広い食べ物というこ
となのだ。
やはりポイントは、この組み合わせだろう。
そして今現在、盛り蕎麦でも噛むのがちょっときつい
ので、蕎麦(らしいもの)を食べたいときにはこの「鰊
そば」が重宝している。
やや、柔らかめになった蕎麦を鰊で流し込む、これが
今の自分には丁度なのだ。