オーケストラの読みかた スコア・リーディング入門, 池辺晋一郎, Gakken, 2005年
・『N響アワー』の前司会者によるクラシック音楽へのいざない。平易な言葉でフルスコア(総譜)の読み方を解き明かす。初心者向けの内容で、「初めてフルスコアを見る」という人でも容易に理解できる難易度です。従って、ある程度の音楽の経験者にとっては物足りなく感じてしまうでしょう。私の場合でも、だいたい見知った話がほとんどでしたが、中には「ヘェェ~」という話も混じっていました。
・クラリネットやホルンなどの移調楽器がどうも苦手、というか全然読めません。生理的に受け付けない感じ。
・いつもは古本の文庫本・新書ですが、今回は珍しく新刊の単行本。
・「しかし、世の中には専門書しかない――それでは困る。スコア・リーディングの専門書とは、オーケストラのスコアを一台のピアノでいかに弾くか、という目的のものなのだが、そんなことにはおかまいなしで、ひたすらスコアを読む楽しさを語った本もあっていいではないか!」p.2
・「かくして、オーケストラ・メンバーには、演奏技術に加えて、いかに休みをなんなく数えるか、という技術も要求されるのである。」p.17
・「また、スコアには書かれていないが、ティンパニの並べ方にはアメリカ式とドイツ式の2種類がある。アメリカ式は、奏者から見て左側に低音、右側に高音のティンパニが置かれている。ドイツ式はその逆だ。」p.35
・「楽譜が読めなければ、スコア・リーディングはできない? ウーン……。 もちろん読めるにこしたことはないが、すべての音符を完璧に読みこなす必要はない。」p.70
・「クラリネットという楽器は、いろいろ試みられたが、結局「ド」を吹けば「ド」が鳴る「C(ツェー)管の楽器」は良い音がしない。(中略)歴史の中でいろいろと試行錯誤した結果、わずかに長さを変えただけで、絶妙な音色になった。こうしてやむを得ず「B(ベー)管」の楽器を作ったのだ。要するに、この楽器の「ド」を吹くと、実際は「シ♭」が鳴る。」p.76
・「スコアに登場する記号は、主にイタリア語で表記されているが、ウェーバーあたりからドイツ人作曲家はドイツ語の表記をするようになった。それは、この頃からイタリアが音楽文化の中心ではなくなったからだろう。」p.93
・「まず、メロディ・パートを見つけることから始めてみよう。 スコアをタテではなくヨコに眺めて、ひとつのラインがヨコに伸びていたら、たいていそれがメロディ・ラインといえるので、さほど難しいことではない。」p.99
・「つまりハイドンやモーツァルトの時代の強弱記号は「フォルテに聞こえてほしい!」という意味。「聞こえる音」の単位=「フォン」で書かれていると言えるだろう。 ところが、ある時代から(チャイコフスキーはすでにそう)、「どう聞こえるか」というより、「その通りに演奏すればいい」というようになった。「フォン」ではなく、「デシベル」で書かれるようになったといえば、わかりやすいだろうか? たとえばホルンに mp と書いてあり、同じ時にハープに f と書いてあったとする。「あ、これは作曲家がハープを聞かせたいんだ!」と指揮者が勘違いして、「ハープはもっと強くしてください! ホルンの人はもっと弱くして」と言ったら、これは間違いなのだ。本来の意味は、ハープは音の弱い楽器だからフォルテで、ホルンは音の強い楽器だから mp ぐらいで弾けばいい、ということ。ハープが f で、ホルンが mp なら、ちょうど良いバランスになる、と作曲家が書いていることを、指揮者は見抜かなくてはいけない。」p.118
・「シューベルトの《弦楽四重奏曲「死と乙女」》の弦楽合奏版をお聴きになったことはあるだろうか? これを弦楽合奏に編曲したのはマーラー。スコアを見るとほとんど原曲と同じに見えるのだが、よく観察していくと違いが見えてくる。(中略)マーラーは指揮者でもあったから、合奏におけるコントラバスの重要性も十分わかっていた。そこで、コントラバスをどこでどう加えればよいかを厳密に計算し、本当に重要なところで、チェロとコントラバスを独立させたパートを作ったのだ。それによって、コントラバスの入らない弦楽四重奏からは、感じとることのできない、厚みと深さがこの曲に増したわけである。さすがはマーラー!」p.130 「聴く」どころか「弾いて」地獄を見ました。
・「「オーケストレーションの魔術師」の筆頭にあげられるのが、ベルリオーズ。 彼の代表作《幻想交響曲》は、ベートーヴェンの没後わずか3年で書かれたにも関わらず、編成だけを見ても、ずいぶん楽器の種類が増えていることがわかる。」p.147
・「「近くて遠きは演奏家」というエッセイを書いたことがある。同じ音楽家でありながら、作曲家と演奏家は、体質も性格も、もちろん資質も全く違う、というのが僕の持論。作曲家である僕は、むしろ小説家や画家あるいは建築家の友人達と、ああ同種の仕事だな、と実感するのである。」p.155
・「《春の祭典》のスコアは、どのページにも「発見」がある。その新鮮さは、作曲から100年近くたつ現在も色あせていない。きちんと読めなくてもいい。この曲のスコアは、眺めるだけでも大きな価値がある、と声高に叫びたいのである。」p.162
・「言うまでもないことだが、音楽は「時間芸術」ということになっている。でも、それだけでは言い足りない。「記憶の芸術」とつけ加えておきたい。昔から音楽は、いかに、そしてどこまで「記憶」というものに頼れるか、ということを考えつづけてきた。これこそ、音楽のカタチ(フォルム)についての思考のモトである。(中略)あ、音楽の「フォルム」がスコアを読むことと関係あるのか?っていう質問が聞こえてきたぞ。では、晩年のブラームスが自作を指揮した時のエピソードを。自分がスコアに書き込んだ「提示部の繰り返し」を、カットして演奏した。「自分の曲なのに省略なんて……」といった人に、ブラームス答えていわく。「私のこの曲は、もう十分に覚えてもらえた。だから、繰り返しは必要ない」 つまり繰り返しは、聴く人に記憶してもらうための手立てなのである。ということは、当然「再現」も記憶と関わる。そしてこれら「提示」とか「再現」という概念は、つまるところ「フォルム」の問題だ。」p.164
・『N響アワー』の前司会者によるクラシック音楽へのいざない。平易な言葉でフルスコア(総譜)の読み方を解き明かす。初心者向けの内容で、「初めてフルスコアを見る」という人でも容易に理解できる難易度です。従って、ある程度の音楽の経験者にとっては物足りなく感じてしまうでしょう。私の場合でも、だいたい見知った話がほとんどでしたが、中には「ヘェェ~」という話も混じっていました。
・クラリネットやホルンなどの移調楽器がどうも苦手、というか全然読めません。生理的に受け付けない感じ。
・いつもは古本の文庫本・新書ですが、今回は珍しく新刊の単行本。
・「しかし、世の中には専門書しかない――それでは困る。スコア・リーディングの専門書とは、オーケストラのスコアを一台のピアノでいかに弾くか、という目的のものなのだが、そんなことにはおかまいなしで、ひたすらスコアを読む楽しさを語った本もあっていいではないか!」p.2
・「かくして、オーケストラ・メンバーには、演奏技術に加えて、いかに休みをなんなく数えるか、という技術も要求されるのである。」p.17
・「また、スコアには書かれていないが、ティンパニの並べ方にはアメリカ式とドイツ式の2種類がある。アメリカ式は、奏者から見て左側に低音、右側に高音のティンパニが置かれている。ドイツ式はその逆だ。」p.35
・「楽譜が読めなければ、スコア・リーディングはできない? ウーン……。 もちろん読めるにこしたことはないが、すべての音符を完璧に読みこなす必要はない。」p.70
・「クラリネットという楽器は、いろいろ試みられたが、結局「ド」を吹けば「ド」が鳴る「C(ツェー)管の楽器」は良い音がしない。(中略)歴史の中でいろいろと試行錯誤した結果、わずかに長さを変えただけで、絶妙な音色になった。こうしてやむを得ず「B(ベー)管」の楽器を作ったのだ。要するに、この楽器の「ド」を吹くと、実際は「シ♭」が鳴る。」p.76
・「スコアに登場する記号は、主にイタリア語で表記されているが、ウェーバーあたりからドイツ人作曲家はドイツ語の表記をするようになった。それは、この頃からイタリアが音楽文化の中心ではなくなったからだろう。」p.93
・「まず、メロディ・パートを見つけることから始めてみよう。 スコアをタテではなくヨコに眺めて、ひとつのラインがヨコに伸びていたら、たいていそれがメロディ・ラインといえるので、さほど難しいことではない。」p.99
・「つまりハイドンやモーツァルトの時代の強弱記号は「フォルテに聞こえてほしい!」という意味。「聞こえる音」の単位=「フォン」で書かれていると言えるだろう。 ところが、ある時代から(チャイコフスキーはすでにそう)、「どう聞こえるか」というより、「その通りに演奏すればいい」というようになった。「フォン」ではなく、「デシベル」で書かれるようになったといえば、わかりやすいだろうか? たとえばホルンに mp と書いてあり、同じ時にハープに f と書いてあったとする。「あ、これは作曲家がハープを聞かせたいんだ!」と指揮者が勘違いして、「ハープはもっと強くしてください! ホルンの人はもっと弱くして」と言ったら、これは間違いなのだ。本来の意味は、ハープは音の弱い楽器だからフォルテで、ホルンは音の強い楽器だから mp ぐらいで弾けばいい、ということ。ハープが f で、ホルンが mp なら、ちょうど良いバランスになる、と作曲家が書いていることを、指揮者は見抜かなくてはいけない。」p.118
・「シューベルトの《弦楽四重奏曲「死と乙女」》の弦楽合奏版をお聴きになったことはあるだろうか? これを弦楽合奏に編曲したのはマーラー。スコアを見るとほとんど原曲と同じに見えるのだが、よく観察していくと違いが見えてくる。(中略)マーラーは指揮者でもあったから、合奏におけるコントラバスの重要性も十分わかっていた。そこで、コントラバスをどこでどう加えればよいかを厳密に計算し、本当に重要なところで、チェロとコントラバスを独立させたパートを作ったのだ。それによって、コントラバスの入らない弦楽四重奏からは、感じとることのできない、厚みと深さがこの曲に増したわけである。さすがはマーラー!」p.130 「聴く」どころか「弾いて」地獄を見ました。
・「「オーケストレーションの魔術師」の筆頭にあげられるのが、ベルリオーズ。 彼の代表作《幻想交響曲》は、ベートーヴェンの没後わずか3年で書かれたにも関わらず、編成だけを見ても、ずいぶん楽器の種類が増えていることがわかる。」p.147
・「「近くて遠きは演奏家」というエッセイを書いたことがある。同じ音楽家でありながら、作曲家と演奏家は、体質も性格も、もちろん資質も全く違う、というのが僕の持論。作曲家である僕は、むしろ小説家や画家あるいは建築家の友人達と、ああ同種の仕事だな、と実感するのである。」p.155
・「《春の祭典》のスコアは、どのページにも「発見」がある。その新鮮さは、作曲から100年近くたつ現在も色あせていない。きちんと読めなくてもいい。この曲のスコアは、眺めるだけでも大きな価値がある、と声高に叫びたいのである。」p.162
・「言うまでもないことだが、音楽は「時間芸術」ということになっている。でも、それだけでは言い足りない。「記憶の芸術」とつけ加えておきたい。昔から音楽は、いかに、そしてどこまで「記憶」というものに頼れるか、ということを考えつづけてきた。これこそ、音楽のカタチ(フォルム)についての思考のモトである。(中略)あ、音楽の「フォルム」がスコアを読むことと関係あるのか?っていう質問が聞こえてきたぞ。では、晩年のブラームスが自作を指揮した時のエピソードを。自分がスコアに書き込んだ「提示部の繰り返し」を、カットして演奏した。「自分の曲なのに省略なんて……」といった人に、ブラームス答えていわく。「私のこの曲は、もう十分に覚えてもらえた。だから、繰り返しは必要ない」 つまり繰り返しは、聴く人に記憶してもらうための手立てなのである。ということは、当然「再現」も記憶と関わる。そしてこれら「提示」とか「再現」という概念は、つまるところ「フォルム」の問題だ。」p.164