ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】デパートを発明した夫婦

2009年08月18日 22時01分00秒 | 読書記録2009
デパートを発明した夫婦, 鹿島茂, 講談社現代新書 1076, 1991年
・19世紀のパリにて、ブシコー夫妻によって創始された "デパート" という商業形態について。それは単なる "新しいタイプの商店" というに留まらず、後の世界経済に計り知れない影響を及ぼした。
・デパートの起源、なんて考えたこともありませんでしたが、なかなか興味深く読みました。「とにかくターゲットは女性」である点が印象的です。日本では近年、"デパート" の業態がだんだんと立ち行かなくなってきているようですが、人々の上昇志向が「まあ、この辺でいいや……」と頭打ちになってきたということでしょうか。『質より価格の時代』。それを発明したブシコーなら、立て直すアイディアをまだまだ持っていそうな気もしますが……デパートの命運やいかに。
・「なぜか、昔からデパートが大好きなのである。とにかく、何の用事がなくとも無料で中に入れて、好き勝手に商品を見てまわれるところが素晴らしい。(中略)いまでも、デパートにいると子供のときの幸せな気持が甦ってくる。なにしろ、ありったけの贅沢を「無料」で見せてくれるのだから、こんなにありがたいところはない。世界各地から運ばれた豪華絢爛たる品々を拝観させていただいて、ほんとにお金を払わなくていいのだろうかという気分にさえなってくる。(中略)まったく、デパートは無料の劇場だ。」p.7
・「こんなわけで、ブラチスラヴァのデパートに入った私は、一つの結論に達せざるを得なかった。すなわち、デパートとは純粋に資本主義的な制度であるばかりか、その究極の発現であると。なぜなら、必要によってではなく、欲望によってものを買うという資本主義固有のプロセスは、まさにデパートによって発動されたものだからである。  したがって、ソ連が本気で資本主義経済の導入をおこないたいなら、一見本末転倒のように見えても、まず第一に、強引にでも西側に劣らぬほど品揃えの豊富な豪華デパートを作って、必要の経済から欲望の経済への移行を図り、国民のたんす貯金を吐きださせることだろう。一時的に猛烈なインフレが起きようとも、いったん欲望の原理に基づく消費のサイクルが生れてしまえば生産は自然に追いついてくるはずだ。(中略)あらかじめ、ここで極言をしてしまえば、デパートを発明したこのブシコーこそが資本主義を発明した者なのである。」p.11
・「これに対し、フランスの個人商店では、いまでも入店自由の原則はない。店に入るときには、私邸を訪問するときと同じ心構えで、まず「こんにちは(ボンジュール・ムッシュー(マダム))」ときちんと挨拶しなければならない。そればかりか、買い求める品物のイメージを明確に心に描いておかないと、「何をお求めでしょうか?(ク・デジレ・ヴー)」と店員が近寄ってきたときに、しどろもどろになって、不審な目つきで睨まれることになりかねない。  つまり、店に入ってから買うものを決めるということは許されないのだ。」p.15
・「しかしながら、王政復古期も後半にさしかかる頃になると、こうした状況にも徐々に変化が現れるようになる。すなわち、マガザン・ド・ヌヴォテ(流行品店)と呼ばれる新しいタイプの商店が登場して、一種の商業革命をひきおこしたのである。  マガザン・ド・ヌヴォテとは、ヌヴォテつまり女物の布地などの流行品を販売する衣料品店を意味したが、このマガザン・ド・ヌヴォテはそれまでのどの商店とも異なる画期的な販売方式を採用していた。」p.17
・「ブシコーのデパート戦略とは、驚異(メルヴェーユ)による不意打ちで、消費者を放心状態に投げ込むことにあったのである。」p.27
・「つまり、それまでは、長期の手形を使う必要上、仕入れ先を固定することが要求されていたのだが、この義理がなくなったのである。その結果、複数の納入業者に仕入れ価格を競争させることが可能になり、仕入れ価格が低下したのみならず、品質と価格の点でヴァラエティに富む商品を取り揃えることができるようになった。」p.39
・「薄利多売方式の当然の帰結としてもたらされたこうした大量買い付けは、商業と工業の関係自体をも変容させることになる。つまり、商店に対する工場や作業場の優越は否定され、大規模店、とりわけパリのデパートが織物工場や作業場を支配するという構図ができあがってくるのである。」p.40
・「季節の谷間の二月、九月にはレース、香水、造花、絨毯、家具、陶磁器、漆器など、季節とは無関係の商品を選んで大売出しをおこなって、年に一度スポット・ライトを当てるように心がけ、常に商品の回転率を高める工夫をしている。現代のデパートでは扱い品目もはるかに増えているが、基本的には、ブシコーが<ボン・マルシェ>で作りだしたこの年間売り出しスケジュールが洋の東西を問わず踏襲されている。  ひとことで言えば、回転効率を高めるためのデパートの年間大売り出しラインナップの基本的コンセプトは、すでにこの時代に完全に確立されていたのである。」p.51
・「たしかにこの商品については、一枚につき何サンチームか損を蒙るだろう。だが、それは私の望むところなのだ。損は出る、しかし、そのあとは? もし、女という女をこの店に引き寄せ、こちらの思いのままに扱うことができたら、女たちは山と積まれた商品を見て、誘惑され、正気を失うはずだ。そして、よく考えもしないで、財布を空にするだろう。いいかね君、要は女たちの欲望に火をつけることだ。そのためには、女たちの気にいるような画期的な商品がひとつ必要なのだ。こうして、いったん女たちの欲望に火をつけてしまったら、ほかの店と同じような値段の商品もたやすく売ることができる。」p.54
・「ブシコーのこうした誠実第一の商法を、装われた誠実さだといって非難する者もいたが、実際には、それが装われたものであるか否かはほとんど関係がなかった。なぜなら、「誠実さ」こそが、<ボン・マルシェ>でもっとも確実に売れる「商品」だったからである。」p.60
・「薄利多売方式、バーゲン・セール、テーマを絞った大売り出し、目玉商品、返品可といった、ブシコーが<ボン・マルシェ>で生みだした販売方法は、すべて、ひとつの大きな原則に基づいていた。すなわち、多種類の商品が多量に売れるということである。しかし、この原則が貫徹されるためには、絶対的な条件が必要となる。それは、多種類の商品を多量にならべておくことのできるスペース、すなわち巨大な店舗である。」p.62
・「ムーレは、客が店から出たときに、目が痛くなるようなディスプレイをしなければならないと主張する。そして、実際、客はこの強烈な色彩に吸い寄せられたように絹生地売り場に殺到してくる。」p.87
・「ブシコーが発明したあらゆる商法は、あらかじめ結論を出してしまえば、ただひとつの方法にいきつく。それは、女性の中に眠っていたすべての欲望を目覚めさせることである。」p.90
・「「女をつかまえたまえ。そうしたら、世界だって売りつけることができるだろう」」p.96
・「すでに、デパートの誕生と同時に、必要による盗みではない病理的な万引きが発生していたわけだが、これは、裏を返せば、デパートの女性誘惑戦術がそれだけ巧みだったことを物語ってはいないだろうか。欲望の喚起されないデパートでは、万引きもまた起こらないからだ。」p.98
・「この頃(1903年)には、まだフランスにはサンタクロースは存在せず、贈り物は親か親類が元旦にあげることになっていた。サンタクロースは第一次世界大戦のあと、アメリカのデパートから輸入されるのを待たなければならない。さすがのブシコーもサンタクロースまでは発明できなかったようである。」p.116
・「当時は、ブルジョワ家庭ではどんな貧しい所帯でもたいてい料理女中がいて、食料品の買い物はこの女中が受け持つことになっていたので、<ボン・マルシェ>には当然、食料品売り場はなかったが、(いまでもフランスのデパートでは食料品は付属のスーパーでしか扱っていない)」p.125
・「ようするに、「アジャンダ」には、全編を通じて、「アッパー・ミドルたらんとする消費者は、すべての面で<ボン・マルシェ>を利用することによって、その理想を実現しなさい」という教育的な命令が、現代のコマーシャル戦略も顔負けの巧みさですべりこませてあるのである。」p.126
・「こうした馴れ合いの宣伝記事をフランス語ではレクラムというが、ブシコーは、たとえそれがレクラムであろうとも消費者は純然たる広告よりはレポート記事のほうを信用することを承知していた。」p.129
・「結局のところ<ボン・マルシェ>の集客戦術は、たとえ買う気がない客でも、とにかく店に呼んでしまえという、こうした原則に基づいていたが、ブシコーは1872年に新館を開店させたとき、この原則をさらに一歩推し進め、デパート内に、待合室を兼ねた読書室を設けるという、およそ並の商人では思いもつかない独創的なアイディアを打ち出した。(中略)女性客というのは、なぜか、デパートに行くのには二人連れを好むくせに、買い物は一人でしたがるものなので、連れをその間待たせておける場所があるというのはまさに願ってもないことなのである。」p.131
・「ブシコーが打ち出した文化戦略の極めつきは、<ボン・マルシェ>の大ホールを一瞬のうちに音楽ホールに変身させておこなう、クラシック・コンサートだった。(中略)1873年、ブシコーは、従業員の情操教育も兼ねて、閉店後に、大ホールでクラシック・コンサートをおこなうことを思いついた。といっても、そのオーケストラはすべて<ボン・マルシェ>の従業員のミュージシャンからなっていた。」p.137
・「現代の日本のデパートでは、買い物以外の目的でやってくる女性客がまずめざす場所といえば、おそらく、トイレと喫茶室が一、二位を占めるのではなかろうか。(中略)実は、ブシコーは新館の設計の際、この点も抜かりなく計算に入れていた。(中略)いまでもパリはその傾向が残っているが、十九世紀には、女性が町中で利用できるようなトイレといったらほとんど皆無に等しかったから、<ボン・マルシェ>の清潔なサニタリー・スペースは女性客にとってはまさに砂漠のオアシスに等しいものと感じられていたに違いない。」p.141
・「カタログの郵送はもちろん無料で、総カタログのほか、売り場別、あるいは大売り出しのカタログもあった。1894年の冬シーズンだけでも、150万部のカタログが発送された。(中略)<ボン・マルシェ>のカタログはモダン・エイジのライフ・スタイルを教えてくれる教科書、つまり「ポパイ」や「Hanako」の元祖として、準アッパー・ミドルの階級の者たちにもっとも熱心に読まれていたマガジンだったのである。」p.148
・「<ボン・マルシェ>が打ち出したデパート戦略の大部分は、ブシコー夫妻の合作の結晶であり、デパートは、ブシコー夫妻によって「発明」されたのである。」p.157
・「<ボン・マルシェ>が他のデパートと異なっていた最大の特徴は、それぞれの売り場(1882年の時点で36)が、<ボン・マルシェ>という連邦を構成する共和国のように完全に独立した機能を持っていたことである。売り場には一人ずつ売り場主任が置かれ、仕入れ、販売の両面で、別個の店舗のように、すべてを取り仕切っていた。」p.160
・「<ボン・マルシェ>においては、配達員、ボイラーマン、ボーイなど現業部門の従業員を除くと、上は取締役から下は平の店員まで、すべて固定給プラス歩合給の給与システムを採用していた。<ボン・マルシェ>が大きく躍進した原動力は、薄利多売方式とならんで、この歩合給システムにあったと言っても決して言いすぎではない。」p.164
・「模範的な店員とは、客がどんなにわがままなことを言っても、常に笑顔で礼儀正しく応対し、客が気持ちよく買い物できるような雰囲気を作り出すことのできる店員であり、その任務とはあくまで、客が納得のいく買い物のできるよう手助けをすることである。  そのため、ブシコーは、店員が客に自分のほうから商品を勧めることは禁止していた。(中略)原則としては、商品それ自体に価値を語らせるというのが、ブシコーのモットーであった。」p.169
・「店員とは、極言すれば、客が店員の存在を意識せずに気持ちよく買い物ができるようにするための「完璧なる接客機械」でなければならないのである。  これは、商売とは客と店員の一対一の真剣勝負だとする従来の考え方とはまったく逆をいく商業哲学であり、店員の役割とは、商品と客を結びつけるハイフンのような補助的なものにすぎなくなってしまっている。」p.175
・「かくして、一生を雇われ人として終わることをあらかじめ覚悟したうえで、ヒエラルキーを昇ることだけを励みに、会社のために人生を燃焼させる人間、すなわちサラリーマンが誕生することになる。<ボン・マルシェ>は、「消費者」を作りだしたばかりか、「サラリーマン」まで作りだしたのである。」p.185
・「ひとことで言えば、顧客の意識が上昇したその分だけ、店員の意識も上昇させてやらなければならないのである。」p.198
・「ひとことでいえば、デパートの肉体労働者は、店員のエリート意識を覚醒させるために、経営者が意図的に屈従を強いた存在にすぎなかったのである。」p.208
・「インフレのなかった十九世紀においてはベース・アップという発想自体が存在せず、給与生活者の給与は、昇進がないかぎり何年たっても同じだったのである。」p.210
・「彼が発明したデパートという商業形態にあっては、家族的な配慮によって従業員をひきとめ、娘と経営権を相続するという餌でやる気を引き出すという従来の方法は不可能になっていたのである。従業員がデパートで働く目的はただ、金を得るということ、これだけでしかない。」p.222
・「いいかえれば、<ボン・マルシェ>は、超近代的な販売システムと利益循環システムによって運営されているにもかかわらず、基本的には、「ブシコー夫妻と三千人の子供たち(ブシコー夫人が没した1887年の店員の数)の店」と表現するのがもっともふさわしいのである。(中略)創業者の名前をいまだに掲げているデパートは、パリでは唯一この<ボン・マルシェ>だけである。」p.225
・「近代という時代を作りだすのにあずかって力あった数多くの発明発見の中で、商業の天才ブシコーによっておこなわれたデパートという発明はものを買うというもっとも人間的な行為を百八十度転倒してしまったという点で、まさに革命的な意味を持っている。すなわち、デパートにひとたび足を踏みいれた買い物客は、必要によって買うのではなく、その場で初めて必要を見いだすことになったのである。」p.228
・「消費者に、より豊かなハイ・ライフという目標を設定してやって、そこに到達するよう叱咤激励してやること。実は、この教育的な側面が存在しなかったら、<ボン・マルシェ>の本当の意味での発展はありえなかったはずである。」p.230
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【写】プチ・ナイアガラの滝(伊達市大滝区)後編

2009年08月18日 08時02分02秒 | 撮影記録2009
●プチ・ナイアガラの滝(伊達市大滝区)後編 撮影日 2009.4.24(金) [HomePage][Yahoo!地図]
・伊達の山奥、『プチ・ナイアガラの滝』散策の続き。
 
・散策路はまだ続いているので、先へ行ってみる。名称不明の赤い川にかかる橋を渡る。
 
・滝を下に見ながら散策路は続いています。また、国道が意外と近くを走っているようで、車の通る音が時折聞こえます。
 
・「マイナスイオンシャワーポイント 大滝ナイヤガラ滝 70,000個/cc」の立て看板が。こちらに立つと、「ドドドド……!!」と水の落ちる音と伴に、滝から霧状の飛沫が飛んできます。70,000個/cc がどういう値なのかよく分かりませんが、なんとなく気持の良い場所です。それにしても "ナイヤガラ" なのか "ナイアガラ" なのかハッキリしてほしい。

・この日は曇り空で日が照ったり陰ったり。それに合わせて景色の表情も変わります。
 
・この長流川(おさるがわ)ではボートでの川下りも楽しめるようです。

・見ていると吸い込まれそうな滝壷。

・川岸に下りる鉄製の階段がついていたので、これを降りる。
 
・滝の真横より撮影。
 
・滝の上の景色。川には石ころはあまり見えず、巨大な岩盤の上を流れているような感じです。水はとてもきれいです。
 
・滝の間向かいにも階段がありましたが、足を滑らせて川に落ちても困るので、こちらを降りるのは止めておきました。

・これより更に上流には『三階の滝』という有名な観光地がありますが、そちらの滝に負けないスケールの大きな滝であるにもかかわらず、知名度の方は今ひとつです。地図にも載らず、どうも正式な滝とは認められていないようです。
 
・また別な時期にも訪れたい、ステキな場所でした。また来る日まで~
 
・帰り道。歩いていて気持の良い道です。

・無事車に辿り着き、散策終了。

[Canon EOS 50D + EF-S18-200 IS]
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