今は令和。
ひと昔前の昭和の高度経済成長期に子どもだったわたし、
さらに、
ど田舎出身ですから、
今考えれば、大した情報も持ってなかったし、
特別なことは何にもない生活だったと思います。
でも、それなりに色々経験したことも。
憧れていた友人のお兄ちゃんに影響されて、
中学生の頃から『ロードショー』や『スクリーン』を買い(ちょっとオマセかな)、
洋画が大好きになり、特にロバート・レッドフォードやハリソン・フォードにハマったり。
さらには男子バレーも大好きで、日本鋼管びいきだったり。
森田淳悟さんや大古誠司さんのファンで、とにかく日本鋼管の応援ソングのLPも買ってたっけ。
一方、中村雅俊ファンでもあり、
まあ、中高時代もそれなりにミーハーしてました。
そんな中、もう一つハマっていたのは、
お人形作りでした。
雄鶏社から出版された本で、
米山京子先生のお人形に魅せられ、
その人形が作りたくて作りたくって。
夏休みの家庭科の宿題で作ることにして、
色々試行錯誤したことがすごく懐かしい。
わたしの母は、
若い頃は高校の家庭科の先生をしていたこともあり、
洋裁が大変得意な人でした。
しかし、
マイケル・J・フォックスがそうであるように、
その後、若年性のパーキンソン病にかかり、
体が不自由な日々を送ることとなりました。
でも、
わたしが中学生の頃は、まだなんとか手仕事ができた時期で、
お人形の難しい洋服部分を手伝ってもらったような記憶があります。
↓わたしの「マッシュルちゃん」。
中学2年生の時に作りました。
思い返せば、
米山京子先生のお人形「マッシュルちゃん」は、
母とわたしの共同作業の最後だったのではと思うのです。
次の年に作った「長靴下のピッピ」は、わたしが一人で作った記憶がありますから。
「マッシュルちゃん」、
もともとどんなお人形だったかわかりません。
参考にした本はもちろん手元になく、
わたしの「マッシュルちゃん」は、きっと京子先生の作品とは似て非なるものだと思います。
綿を上手に入れられなくて、
首もグラグラしているのですが、
母との思い出の品としても、
どうしても手放せないでいるのです。
そんな「マッシュルちゃん」の話を、
数年前の展覧会で、初めてお会いした米山京子先生にしてみたら、
「わたしもその人形には思い入れがあって、まだ自宅に飾っている」というようなことを言われたんです。
わたしと母をつなぐ米山ドール「マッシュルちゃん」が、
京子先生にとっても特別な存在であるということ。
その言葉が、今もわたしの心に残っています。
この度、
「ドール・ドール」が40周年ということで記念アルバムが作られ、
わたしは予約をしていて、先日それが送られてきました。
編集後記の部分に、
この冊子がプロの力を借りずに、
親子で作り上げられたものだということが書かれていました。
そのことにもほのぼのしたのですが、
そこに綴られている
京子先生、マリ先生の母娘の姿は、
おこがましいかもしれませんが、
母とわたしの人生とも重なって、
読ませていただきながら、涙を止めることができませんでした。
米山ドール、
これもわたしの原体験の一つなのかもしれません。
「ドール・ドール」40周年、おめでとうございます!
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