続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

表裏。

2014-05-22 06:54:32 | 日常
 《いかに生きるべきか》は潜在的な指針だった。けれど、最近では《いかに死すべきか》に入れ替わっている。何をするにも基準は「死/Xデイ」にある。

 総ては、より良く満足に死んでいくためにかかっている。
 以前は自分の向上心に基点があったのに、今では、来世で待っている人たちの反応が気になって仕方がない。自分自身はカヤの外、賢治やカフカ、独歩やマグリットなどのご機嫌である。
「あれでよかったの?」
「足りないけどね」などと言いながら、笑いあう妄想・・・(おかしいよね)現世の人には殆どまともに相手にされないような仕事をしている。仕事というより趣味、きわめて個人的な繰言に時間を費やしている。

「こんなこと考えているの」などとは決して言えないような作業である。(罰せられることもないだろう)というほどの消極的な気持ちを、ブログに載せている。


「毎日(仕事もしないで)何をしているの?」と、聞かれることがある。
 食べ放題、運動能力ゼロの日常。怠慢は火を見るより明らか・・・だらしなくボォーッとしている人の印象かもしれない。取り得といえば《無害》であることくらい。
「毎日暇で退屈」などと応えると「それならカラオケに」と誘われるので、うっかり暇だとも言えない。


「表と裏の仕事で、毎日手一杯なの」とも言えない。というか、言う必要のない、誰から見てもすでに黄昏生活のど真ん中にいる。こんな報告は失笑を買うだけの戯言に過ぎないかもしれない。


*「あれでよかったの?」という言葉、おれおれ詐欺にかかった後、改めて息子に電話して「お母さんありがとう」を期待する。もちろん返事は「何言ってるの?」
 驚愕の落胆地獄・・・。

「あれでよかったの?」と、お伺いを立てるわたしに、落胆の驚愕が待っているかもしれないけれど、「いいの」と自分を肯定するよりほか術はない。

『ポラーノの広場』345。

2014-05-22 06:44:29 | 宮沢賢治
「どこへさはりましたのですか。」さっきの親方のアーティストが麻のモーニングを着て、大きなフラスコを手にしてみんなを押し分けて立ってゐました。

 親方はシン・ホウと読んで、深、法。
 麻はマと読んで、真。
 着てがキと読んで、記。
 大きなはダイと読んで、題。
 手はシュと読んで、趣。
 分けてはがブンと読んで、文。
 立ってはリュウと読んで、留。

☆深い法(仏の教え)の真(真実)を記している。
 題(テーマ)の趣(考え)に応じ、文(文章)に留めている。

『城』1631。

2014-05-22 06:17:48 | カフカ覚書
だって、この学校に住みこんでいるのは、あまり愉快な暮らしになるようにはおもえないからね。ただね、ここに住んでいるのも、そう長いことはないだろうが、それにしても、助手どもがいなくなって、ふたりきりで静かに暮らせるよういなれば、いろいろ不自由はあっても、あまり気にならないですむだろう。


☆だって、この罪過の一族の滞在は、予言者から受け取った小舟のように見える。ただ、ここにいるのは企みではなく、なにもかも不思議だが脳(知力)が絶えず存在し、一族への抑圧もほとんど気づかないだろう。