先日の「ゆっくり悠遊ウォーク」は小網代の森、京急三崎口駅に集合。今回は新聞にも載っていたということでかなりの人数。
「真夏のとんでもない猛暑の日には6人ということもあったわ」と常連のメンバー。多くても少なくても、それなりに楽しい「歩こう会」。
ほとんど意図せず同じ歩調の人と会話を交わす。それぞれの人生が垣間見え、驚いたり感心したりのわたし、切れ切れの会話の声にも耳を傾けていると小さなことなど笑止に思えてなんだか愉快な気持ちになってくるから不思議。
小網代への行程、いつもの引橋からのコースとは異なり、三戸入口の信号を渡って山の中へ。とにかく転ばないようにだけ気を付けて前の人に付いていく。
見渡す限りの畑はキャベツと大根の葉の緑色の色面、そこに遠く望む東京湾。ステキすぎて(ここはどこ!?)って感じ。上り続けたかと思ったら、今度は下り坂の階段が延々。よく整備され、岩には滑らないように鉄網が張ってあるという念の入れように少なからず感動。
たどり着いたら小網代湾、(ああ、ここまで来れば・・・)後はそれこそ整備された柵の上を歩いて引橋へ、そして集合場所の京急三崎口駅で解散。
協会の皆様、お世話になり有難うございました。
(写真に収めたいくらいの景色だったけど、一グラムでも軽くをモットーに、と言うか負担を減らしたいのでカメラは断念。自分の体重を減らすのが一番なんだけど・・・)
『飛葉と振動』
主題の飛葉はどこにあるの?
不揃いな林立は、人間の手などを省略しているように、樹木なのだろうか。少なくともそう思わせる設定である。
樹木(林)に対峙している任意の人。飛葉は大気の中に重力によって静かに舞い落ちている。その波動を聞いているのだろうか。
飛葉…視覚・聴覚、時に触覚によってそれを認識する。見えるのは光の作用によるものであり、光の粒子や波動は飛葉の落下により形を変容させる。
その微かな振動に五感を澄ます。数多のリズムが刻まれる、数多の光の屈折が大気を躍らせる、時にそのものは身体に触れて地に還って行く。
静かに、静かに…静謐な時が流れていく。決して留まることのない時空の変容。大気は振動を伝える、地球である根本原理。地球磁場と太陽風の圧力が釣り合う幸福な現場である。
若林奮が大気と言うときは、宇宙空間の中の大気圏(地球)と言うことだと思う。その中の緑色、緑色に属するものと言うのは、緑と言う視覚的な意味合いを越えた平和・安定であり、光りの中の粒子や波動のきらめく生命力を指しているのではないかと思う。
存在の根拠は『飛葉と振動』の中に密やかに隠れている。生命のリズムが暗躍する大気、山・川・海をつなぐ道をフラクタルに凝縮し、大気の存在にたどり着くという手法である。
若林奮の壮大なプランは小さな作品のなかにも息づいている。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)
「さうだ。」どこでぼくは、そんなこと習ったらうと思ひながら、ジョバンニもぼんやり答へてゐました。
習ったはシュウと読んで、周。
思ひながらはシと読んで、死。
答へてはトウと読んで、等。
☆周(あまねく)死は等(平等)である。
ところで言うまでもないことですが、こんなにいろいろな食い違いがあるのは、べうにクラムが魔法を使っているからではなく、しごく当たりまえのことなのです。
魔法/zauberei→zauderei/躊躇
クラム/Klamm→Klan/氏族
☆さて死がこのような差別を受けるのは、クラム(氏族)の躊躇のせいではなく非常に明白なのです。