『風景の魅惑』
魅惑されるべき風景がない。風景という固定観念を打ち消しているのだろうか。
額縁の中に描かれた風景を見る、切り取られた風景が額縁の中に納められる。慣習化されたそれらの組み合わせを鑑賞者は期待する。
しかし何も描かれていないどころか、貫通する空虚は、有るはずのものが無いという状態である。しかも、『風景』と題しているにもかかわらず、額縁の中に在るはずの風景が見当たらないという落胆は、見る者に不信を抱かせてしまう。
違えた約束・・・こうあるべき約束の欠如。
傍らの鉄砲は何を意味するのだろう、遠く狙いを定め撃破する…破壊のエネルギーを想起させるモチーフである。立てかけてある赤い壁、赤色は危険の暗示なのか、あるいは何かを打破する闘志なのだろうか。
額縁は、強い主張や意志があるかのように、支えもなく立っている。背後の黒に近い暗緑色は、壁と見まがうように描かれてはいるが幻の時空ではないか。
鑑賞者は額縁の中に風景を探すが、この作品全体が魅惑の要素を内包した静かなる危機を描いている。
有り得ない状況を、あり得るように描いている魅惑。風景と命名された額縁の中に至極当然に風景を探す眼差しの否定。眼差しは額縁を通過し暗澹を覗き見る。明らかに空無であるが、個人的には過去や未来を思い描くこともあるかもしれない。
大いに楽しむべき歓喜は描かれていないが、自由に想起することは可能である。
文字(言葉)は、現象(光景)を喚起させるが、実態はない。
たとえば「風景」と書かれていれば「風景」を期待する脳の仕組みは、単にデーターの集積による観念に過ぎない。
鑑賞者の眼差しを問う作品であり、眼差しと思考との接点が介在している。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)