元教師であるKさん、今足腰弱り、杖二本の四本足である。五分で行き着くバス停へは三十分前に自宅を出る。牛歩の歩みと言うけれど、遥かにそれを上回る鈍さで歩を進めている。
「大丈夫ですか」
「はい、先日入院いたしまして、更に調子が悪化いたしました。でも来春早々、この膝を手術いたしますので、それに賭けています。」と、にっこり。
バスの昇降は顔見知りの人が手伝う、そんな具合でも、どこへでも出かけていく。
「今日は午前は病院、午后は何とかの会、でも帰りはタクシーですのでご心配なく」などと周囲の心配に応えている。
一昨日も会ったけど、昨夕も衣笠で見かけた。和菓子屋を覗きこんでいるので背中をポンとたたくと、
「お稲荷さんを買おうと思いましたけど、たった今そこでランチを食べたばかりなので止めておきます。」
そう、彼女も小太り。「もう少し痩せないといけませんねぇ」と二人で笑いあう仲。
教えられる背中・・・来春の膝の手術、期待しています。85才のあなたの頑張り、しっかりと見せていただいています。
頻繁にタクシーを利用する彼女、道路の向こうに停車している顔見知りの個人タクシーに向かい、「〇〇さ~ん」と大きな声で手を振り、叫んだ。
その彼女の手に握られていたのは長い棒(杖)、こちら側の車の運転手はギョッとしていた。(危ない、危ない・・・)
先輩方はいろいろな意味で高齢者の生き方を教えて下さる。心して学び、高齢者としてまっとうに生きていきたいと考えている。ちなみに、わたくしの昨日の用件は、白髪染めを止めるため、髪を短くカット、パーマをかけてきた次第。
高齢者道、まっしぐらであります。
『絶対の探究』
絶対とは何を指すのだろう。他に類を見ないもの…太陽の存在、地球の存在、真理・・・絶対の権力などともいう。
真理と権力は必ずしもイコールではない。つまり絶対のなかにも矛盾があるということかもしれない。
作品は赤い太陽(昇降)、遥かなる地平、そして天まで届くかの樹木。
しかし、葉のない裸木である。当然、太陽の光(絶対の真理)は透けて通過していく。しかも枝と見えるそれは、むしろ樹の根のように見える。主軸である幹にあたかも葉を想起させる形に根が縦横に伸びている。
根と言うものは幹や枝葉を支え、また水分や養分を送り込む器官である。転倒した位置関係であり、空中における根は意味を持たない。矛盾と言うよりは無意味な象徴である。
『絶対の探究』は、《太陽と地球(地平)の絶対的な関係》と《天まで届くかの無意味な権力》の対峙ではないか。「無条件に支配するかの絶対的な権力は虚構にすぎない」と、語らずして主張しているマグリットの皮肉のような気がする。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとほってゐたのです。
☆双(二つ)を署(配置した)講(はなし)を遂げている。
趣(志すところ)を吟ずる講(はなし)を遂げ、推しはかる組(くみたて)である。
いまお話したことはすべて、バルナバスからよくきかされたことをそのままお伝えしているのです。個人的に直接この問題にかかわりのない人なら、だいたいこれで安心がいくはずです。
☆死の、再びの物語はバルナバス(生死の転換点)がわたしに、しばしば説明したことです。個人的には直接この事件に人ならかかわりのない、これで静まるでしょう。