『飛葉と振動』
《林立する不特定の棒状のもの》に対峙する《身体を被われた足先と頭部だけの男(自身)》が台座(エリア)の中に在るだけである。
飛葉というからにはこの棒状のものは樹木であるらしい。飛葉はすでに樹木を離れ、地上に散逸、あるいは大地に吸収・同化されているのだろうか。
飛葉という詩情あふれる言葉は哀しい。生命を断ち切られた死を免れない時間帯の産物である。死の瞬間を長く引き伸ばしたものと言ってもいいかもしれない。明らかに不可逆の時空に存在するものである。
自分は視覚・聴覚でそれを認識している。救済することなど適うべくもなく、ただ凝視するのみである。
自然の摂理としての時空に共存している自分は、裸眼では見えない分子飛び交う大気の中にいる。
飛葉が教える自然の時空の循環、その一刹那の現場に立ち会う自分は確かに《振動》の波動・粒子を感じている。
全ての存在は、自分と対立する存在物との空気の形に決定づけられている。見えないものを刻めないが、存在を削り極めてその間隔を図る。そこには明らかに空気の層やそれを支える地下の引力が働いている。
稀有な考え方かもしれない、しかし存在の根底は、見えないものの力(振動する空気の層)による因果関係を抜きにしては認識できないものである。
それを確かに教え伝えてくれているのは、例えば《飛葉》ではないかと考える。母体(生命体)から離れた飛葉は、風力による浮遊はあるかもしれないが、確実に重力により地上に落下する。幾憶の歳月に繰り返されてきた循環に抗うべき術はない。
それを凝視する自分も、その例に漏れるものではなく、時間のサイクルに長短があるだけである。
《飛葉》という切なくも愛しい「生から死」への時間を垣間見せる対象物との、心理的にも物理的にも揺れる時空への哀惜が《振動》である。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)