『田園』
裸木である樹木が二本並んでおり、よく見ると二本は全く同じ形の枝の張り具合をしている。
つまり連続・連鎖の暗示である。
その背後の波状の線は地層を暗示しているように見える。その向こうの暗緑の景色は「田園」と題しているのだから、田園に違いないと甘受する。しかし、どう見ても暗く、生産的な明るさが欠如している。
そして更に見ていくと、この画面全体が逆さになっても納得のいく風景であることに気付く。
しかも、手前の樹木と見えたものは確かに樹木には違いないが、樹木の根である。
根がむき出しの空間などというものは考え難い。なぜなら、根が土から離れていることは、すでに樹木の死を意味するからである。 時間的に考えれば、つまり過去である。
背後の波状の線は画面を逆さにすると、空気を遮断する境界のように見えてくる。樹木の根は空中にぶら下がっているというか浮遊の状態である。り、重量を持たない世界に在る。
『田園』の画面の二重性は何を意味しているのだろう。
時空の変遷、時空の連鎖。
画面を逆さにし、樹木の根の視点から見ると、田園らしき景色は俯瞰である。
ずっと手前・・・樹の根(死)よりもっと手前から見ている立ち位置というものは、過去からの眺望ということになる、しかも視点は高みである。つまり鑑賞者も浮遊を体験するという具合である。田園の風景(現時点)を過去から未来の時空として垣間見る妙を味わうということである。
けれど、この作品が逆さに配置されることは恐らく有り得ない。(マグリットのサイン通り、それが作家の意志であれば)
過去と現在、未来が混在する錯綜した時空、それが『田園』の隠れたメッセージである。
(写真家国立新美術館『マグリット』展・図録より)