〔柴田先生の授業〕
ー三浦半島の地層ー
5000万年前以降の岩石と地層は深海で作られました。500万年前くらいにプレートの働きに影響をうけ、50万年前くらいに三浦半島の陸地は浅い海で作られました。
貝化石とナウマンゾウの時代-宮田層は約30万年前(水深0~200m)
津久井化石床(貝やクジラの化石・東京ホタテ/1万年前・絶滅した貝です)
逗子層(600~400万年前)と横須賀層(5万年前/大津砂泥部層)に地層の不整合が見られます。
横須賀市のナウマンゾウは、2万年前くらいに棲んでいた象で、エドムンド・ナウマンがベース(基地)のある稲岡町で港を造成する際に発見しました。
1867年11月(大政奉還の頃)長井・荒崎入口あたりでも発見されています。(漂流の拠るものと思われる)
三浦半島の縄文時代(6000~7000年前)はとても暖かで、吉井貝塚ではイノシシの下あごやニホンジカの角などが発見されています。
断層とは地層や岩盤の食い違いを言い、左右から押し付けられたものを逆断層、左右から引っ張られたものを正断層と言い、水平にずれ込んだものを横ずれ断層と言います。
活断層と言うのは数千年の周期で起きる地震の断層であり、三浦半島には5本の活断層があります。その意味で北断層群は近い将来、活動の可能性が高いと予想されています。
三浦半島と房総半島はほとんど同じ地質、ほぼ同じ地層岩石が観察されていますが、伊豆半島の地質とは全く異なります。伊豆半島は南から移動してきて約500万年前に本州に衝突した域です。利根川からの古東京湾は2万年前くらいにできたと思われます。
地層はあまりに長い時間を要しているので、明確には把握できませんが、そんな風な変動により今の三浦半島があり、これからの予測不能な変動に、どこまで人間が付いていかれるのか・・・。地球の変遷の一端に、わたし達は住まわせてもらっているに過ぎないのかもしれません。
柴田先生ありがとうございました。
河原の礫は、みんなすきとほって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲をあらはしたのや、また稜から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした。
☆講(はなし)に現れる歴(一つ一つ)を推しはかる。
光の霊が集まる極(きわみ)で、霊と接(つながる)。
照(あまねく光があたる=平等)を吐く講(はなし)を推しはかる。
光は霊(たま)である。
つまり、彼を見た人の、その時の瞬間的な気分や、興奮の程度や、気体あるいは絶望の無数の度合いなどによって、食い違いが生じるのです。おまけに、クラムを見たといっても、たいていは束の間しか見られないのです。
☆つまり、瞬間の気分や扇動の度合いや暈(死の入口)や、絶望の無数の度合いによって生じます。その上、クラム(氏族)を見たといってもたいていは瞬時のことなのです。