なんとなく慌ただしいけれど、、一つづつ片付けていく。やり残していることはたくさんあるけれど、(もういいか)という諦念が先に立つ。
何もかもやることは雑だけれど、それでもやった気になっている能天気に救われている。
去年の今頃は足に支障をきたし歩けなかった。右足を出し次は左足というその一歩が地に着けないほどの痛みがあって本当に情けない思いをした。
《年が明ければ、きっと治る!》という楽観に支えられていたけれど、元のレベルに戻るまで結局半年を要した。
元のレベル…不完全な、どこかしら痛みを伴ったぎこちない歩行、それでも《前に進めれば十分だわ》とたかをくくっている。
今年一年の感慨・・・もっと頑張ればよかったなぁという後悔。でも、(わたしの能力ではこんなとこだよ)と自嘲。
《頑張りすぎない》をモットーにしている。(もう、時間はないのにね)
慌てても、ゆっくりしてても時間はきちんと過ぎて行くのだから、過去を振り向かず明日へつながる今日を生きていく。
『ガラスの鍵』…極めて神秘的な命名である。
草木も生えない高山、聳え立つ山の峰に巨岩石が乗っている。岩が火口から飛んできて落下する、ということはある。したがって岩石が険しい山の頂上付近に在るなどということは自然現象としては有り得ない。
山頂の嶺に岩石が落下するとしたら、それは天から降って来たとしか思えない。(隕石が地球に衝突したとして非常な重さを持つそれは下へと転落し、嶺に着地することなど想定外)
いわば超常現象である。
現実を超越した光景としての巨岩石の有り様は神秘・・・神の領域としか思えない。
ガラスの鍵。ガラスは良く見えると同時にガラスそのものは透明であるため見え難い、つまり神秘のベールである。
この世の中は、確かに神秘的なベールに覆われている。不可思議、想定外、計り知れない妙、運命の悪戯、幸不幸・・・目に見えない神秘に翻弄されている現実。
ガラス(神秘のベール)の向こうには崇高なるものの存在があるのではないか、そうに違いない。
見えないけれど、確かに在るもの。もちろん物理的現象など凌駕する世界である。
目に見える世界を一笑に付すような超絶無比な存在は近くにあるかもしれず、また仰ぎ見ることさえ叶わない遠方に在るのかもしれない。
マグリットは、一つの試みとして、この心象を描いたのではないか。
『ガラスの鍵』は、神の領域を開ける秘密の鍵である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「そこのその突起を壊さないやうに。スコープを使ひたまへ、スコープを。おっと、も少し遠くから掘って。いけない、いけない。なぜそんな乱暴をするんだ。」
☆訥(口が重い)鬼(死者)の界(世界)。
志(こころざす)照(あまねく光があたる=平等)を演(のべる)。掘りさげ覧(広く見渡し)望(遠くをのぞむ)。
〈それじゃ、バルナバス〉と、わたしは言ってやります。〈あんたはなぜ悩んだりしているの〉とね。すると、彼は、眼に見えて困惑しながら、あの白のお役人の特徴をいろいろと列挙しはじめます。
☆「それじゃ、バルナバス(生死の転換点)」と、わたしは言います。「なぜ、疑っているの、なぜ悩んでいるの」と。すると、彼は眼に見えて困惑し、終末(死)に対する反抗の特別なことを並べはじめました。