手のひらほどの小さな蓋付きの缶に収められた作品世界。
縮図の中の世界である。換言すると、自分の所有するエリアは世界の中心であるともいえる。《その中の椅子と机》は、思考を重ねる哲学者の《場》という気がする。
緑の木立に閉塞的に造られた安息、遮蔽され、存在を気づかれることなく自由に謳歌できる所有の空間。
夢想である、夢想にすぎないかもしれない。
しかし、存在というものは本来そんな風に密やかなものではないか、と考えてみる。存在しているが気づかれることなく存在している。
ちなみに一角獣座という星座は、精度の高い望遠鏡で凝視すれば、宝庫のような光輝溢れるエリアであるけれど、裸眼では認識が不可能なほどの寂しい星座である。
確実に存在するが、眼に見え難い秘密めいたエリアへの憧憬にも似た固執。若林奮の時空の測り方は、ここに起因する。
自分の立ち位置から消失点への時空。直線的に見る天空、見えないが確実に存在する地表の下深く、目の前に広がる大気圏、背後の時空・・・彫刻家として前代未聞の計測は壮大であるがゆえに、むしろ極小の缶の中に凝縮されて夢想の一点と化す。
無限に酷似した一点ではないか・・・一点の中に振動して止まない光や諸々の粒子、元素・原子に至るまでの静謐な流動を感じる。気体や葉(生命体)や水の変幻の中の微細な 運動である。
《後の》と付記することがある。それは《予め学習された情報の後の》という前提なのだと思う。太古から現在に至るまでの地球の風(大気・水・地層)を時間の集積の中に感じているということである。
若林奮の作品はある意味《実験》であり、永続的な時空をも想定したものであれば、常に更新されていく世界でもある。
小さな缶の中に託した若林奮の世界、「更なる展開を見たかった!」と思う。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)
そして気をつけて見ると、そこらには、蹄の二つある足跡のついた岩が、四角に十ばかり、きれいに切り取られて番号がつけられてありました。
☆鬼(死者)が現れる態(ありさま)を辞(言葉)で測り、積(つみ重ねること)を含んでいる。
詞(ことば)で較(くらべ)、自由に接(つなぎ)、趣(考え)の判(可否を定める)を合わせる。
そんなことよりもわたしがもっと重要だとおもいますのは、クラムがどのようにしてバルナバスを迎えるかということです。バルナバスはそのこともよく説明してくれました。スケッチまで描いてくれました。
☆その上さらに重要だと思うのは、クラム(氏族)がどのようにしてバルナバス(生死の転換点)を間違えてしまったのかということです。バルナバス(生死の転換点)はしばしば描写し、それどころか印までつけたのです。