続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『終わりなき認識』

2015-12-15 06:54:25 | 美術ノート

 『終わりなき認識』、そもそも認識とは何なのだろう。
 情報(対象)は、見ること聞くこと…五感をもって確認され、認識に至る。対象は、見えるという物理的なヒントを持つものだけでなく、心理的な領域をも含めた世界である。

 球体の上に人間が乗っている。人物が小さく見えることで脳は、屋外であると経験的な判断を下す。が、実のところ室内である可能性も否定できない。
 そのように認識というものは曖昧な要素を持ち、また各人それぞれが異なる見解(直感・感情・理性・知覚)を持つものであって認識を一括りにすることは不可能である。

 この球体は、登ることを拒否するような勾配を持つ険しい山頂の上に浮遊している。だから、球体の上の人物は少しでもバランスを崩したら即、落下の憂き目にあう危うい立ち位置にいるが、彼は気づかないばかりか上方を観察しているという呑気さである。

 球体は真理の具現だと思う。その上に乗っている、つまりは真理を極めたと思っていること自体が危ういという表明である。
 真理は確かに存在するが、その認識に至るという慢心は許されない。
 室内は人智(概念・推理・判断)の表象であり、屋外は自然である。その狭間で、対象を知る、あるいは知らされるという判断は極めて漠然としたものである。
 しかし、その漠然とした感想を言葉や態度で反応することにより認識の具体性を示すのであって、精神内部に留めた認識は空無に等しい。
 その意味で内側(建物内部)と外部の境界を外したような時空に球体(真理と知覚/人)を位置したものと思われる。

 認識というのは、ある意味個人的感想であり、答えである。カフカに「答えの周りをうろつく」という表現があるが、どこまでいっても核の核を不動のものとして把握することは難しい。

 球体(真理)の上で世界を眺め渡すかの人物、《認識における状況は、こんなものである》とマグリットは考える。つまりは自己批判でもある『終わりなき認識』
 究極の旅を続けるマグリットのつぶやきかもしれない。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『銀河鉄道の夜』169。

2015-12-15 06:29:51 | 宮沢賢治

そこに小さな五六人の人かげが、何か掘り出すか埋めるかしてゐるらしく、立ったり屈んだり、時々なにかの道具が、ピカッと光ったりしました。


☆章(文章)の語(ことば)を録(書き記す)任(つとめ)を尽(ことごとく)化(形、性質を変えて別のものになる)により屈(まげて)推しはかる。
  毎(そのたびごと)に流(一か所にとどまらず)屈(まがる/違う方向へ行く)。
  次の字を導き求める講(はなし)である。


『城』2174。

2015-12-15 06:19:04 | カフカ覚書

Kは、バルナバスに託した使いの用向きが首尾よくいくという希望をしだいに失っていったが、城でのバルナバスの立場がまずくなればなるほど、下の村ではますますKに近づいてくるのであった。


☆バルナバス(生死の転換点)の知らせが先祖の結果をしだいに失わせていったが、バルナバス(生死の転換点)の立場が劣るほどに、下(現世)からは、ますます近くなっていったのである。