『神々の怒り』…神々は何に対してお怒りなのだろう。
神はある意味、全肯定的な存在ではなかったか。罪を許す、救済のイメージが強い。
怒るとしたら、その存在への否定しかない。
この作品の中に、神々を否定する要素があるのだろうか。乗馬、車社会などを越えたところにに神さまへの信奉はある。
走る車(停車しているかもしれない)、車の上を飛び越そうとしている騎手(双方は必ずしも同じ直線状にいないかもしれない)。
同じスピードで走り続ければ、馬(騎手)は落下を免れるのだろうか。(神は禍福を降ろす存在であるとされている)
この安泰に見える光景からは、次の瞬間の惨状が予想されるが、極めて静謐な画面である。
車(文明)の上の疾走馬は、何を意味するのだろう。車の走る地上は舗装で整備され山上でありながら、道は平らである。そして、道の端は石積みで安全が保たれている。
画面に見える空気は裕福・安泰であるが、唯一その空気を打ち破っているのは疾走の騎手である。何に向かっているのかは不明であり、そのエネルギーが垣間見えるだけである。車はエネルギー(ガソリン)が内蔵されているので、馬力はあってもそのエネルギーは見えない。
これらの条件の中に神々は隠れているのだろうか。
《神々の怒り》は、すなわち《神々の否定》である。『神は死んだ』と言ったニーチェ、つまり、唯物論を暗示しているのだろうか。
しかし、この危機一髪の状況を救えるものは唯物論的思考(物質)だろうか。否、精神(祈り)であると神々は叫んでいるかもしれない。
一寸先の闇を想起させる静かな画面、神々の怒りは隠れていて見えない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)