7月1日、すでに一年の半分が経過したということである。
時間は静かにも人生を終末に追いやる、時間に逆らう法はどこにもない。時間の中で劣化を余儀なくされていく自分を客観的に眺め、7月1日という日を受け入れている。
老化は下り坂だろうか、昨日と同じ今日は望めず、見えない埃の山にうずもれ、やがて埃そのものになって空に帰していく。
天に召される…否、天へ駈け上り空を愉しむのだという上昇志向(?)の能天気な楽観を放棄しなければ、それなりに日常は楽しくなるのではないか。
刻一刻という暗い予兆、刻一刻という明るい幕開け、扉は常に開いている。
自由な選択は時間と競合し、わたしを待っている。
過ぎていくのではなく、《時間はわたしを待っている》この選択は正しいかもしれない。見栄を切って登っていくのだという妄想が大切だと思う。
7月1日…いよいよ後半戦の花火があがる。
『占い』
建物の開口部から海・空・大地を望み、その中央に鼻(鼻のみ)が鎮座しているという光景。背後には例の一葉に模した樹が一本、唐突に立っている。
怪しい雲行きの空、曇天の下の青い海、草木の一本も生えていない地面に一葉の形をした葉脈の代わりに根毛を拡げた天地逆さまの樹(あり得ない空想の樹)がある。
嘘と真の混在、巨大な鼻(嗅覚)が地上に鎮座するという奇怪。
この景色は何を意味しているのだろう・・・「占い」は、未来を予知する感覚的な仕事である。
過去におけるデータの集積、確率論、統計はものを言うかもしれないが、あくまで実体のない空気を読む作業である。
鼻における気体の分析、見えないものを感知する鼻は、化学の領域の作用を有しているかもしれない。
しかし、『占い』は、心理的な領域にのみ作用する判断であって、実質的な計画、物理的な予測ではない。
精神界にのみ通用する『占い』の実態は、ことほど左様に滑稽さが鎮座するものである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
あれはほんたうにしづかでつめたい。僕はあれをよく見てこゝろもちをしづめるんだ。)ジョバンニは熱って痛いあたまを両手で押へるやうにしてそっちの方を見ました。
☆僕(わたくし)が験(調べ)熱(夢中になること)は、通(行き来する)霊(死者の魂)の趣(考え)を負(自分のものとして引き受ける)法(神仏の教え)を現すことである。
フリーダは、弁護士してやる必要なんかまったくありません。ただ称賛にあたいするだけです。わたしがふたりの場合を比較するのは、両者がおなじだと言っているのではないのです。両者の関係はまぁ白と黒のようなもので、フリーダのほうが白なんです。
☆彼女は守らなくていいんです。ただほめるのではなく、わたしが比較したのは両者がおなじだと言っているのではありません。お互い抑制し、白と黒のようなものでフリーダのほうが白なのです。