平凡な毎日、でも少しづつ何かが違う。どんどん年を重ねて不自由になりつまらないと感じるようでは寂しい。
平凡な毎日を生きられることは素晴らしい!新鮮で(何か嬉しいことが待っている)と妄想するだけでも楽しい(はず・・・)。
TVの日曜美術館でデュシャンの自転車を見て《あっ!》と思い、借りてきた『デュシャン』の本との出会い。
ボンヤリしているので、少々感激が薄い傾向にある。(なんで今頃デュシャンなの?)確かにねぇ・・・でも今より遅かったら、もうあの世かも。
展覧会にも勢い込んでいくパワーがない。このままじゃ、永遠にどこにも行かれないと、イベント・講習会だよりで、自分を行くように仕掛ける。
(それでも行かないよりましだよ)と慰めているお粗末。
外へ出る、外へ出ればきっと出逢いがある。緑の風に吹かれるだけでも・・・。
生きて在る限り、出逢いを大切にしたい!
『折れた腕の前に』
壁に立てかけた雪かきシャベルがあり『折れた腕の前に』と命名されている。
これっきり・・・。
折れた腕の前の雪かきシャベルは、あっても使うことのできない代物。ただ在るのみである。
この作品の前には『折れた腕を持つ人物』がいて、雪かきシャベルがあり、その関係性を説明しているわけだけれど、その間にあるのは《使用不可》の断絶である。
シャベルが壊れているわけではなく、人間のほうに不都合が生じている。しかし、完品であるシャベルを提示して『折れた腕の前に』と題されている。
ユーモア、滑稽…シャベルの前の不在の人物像を想起せざるを得ない空気。
鑑賞者は《不在であるが、存在している人物》を感じ、もしかしたら、そのエリアを避けねばという奇妙な感覚を抱くかもしれない。
不在の人物を存在するかのように思わせる策謀、企てを静かに潜ませている。
(写真は『マルセルデュシャン』㈱美術出版社より)
すきとほった硝子のやうな笛が鳴って汽車はしづかに動き出し、カムパネルラもさびしさうに星めぐりの口笛を吹きました。
☆照(あまねく光が当たる=平等)の死に適(あてはめるのに)迷(判断が付きかねる)は、鬼(死者の魂)の赦(罪や過ちを許す)道(みちすじ)を推しはかり、また照(あまねく光が当たる=平等)の考えを適(あてはめ)推しはかる。
とにかく、こうしていろいろとお聞きいただくと、あなたも、ソルティーニのとった態度がしだいにおわかりになり、あまりけしからんことだとお考えになったことでしょう。実際、ソルティーニのやり口は、クラムのやり口にくらべたら、ずっと我慢ができますわ。
☆いずれにせよ死の小舟は、ソルティーニの分別ある行動として理解されるようになり、おかしなことではなくなったのです。実際、あのクラム(氏族)と共に、関係者も死を耐えるようになったのです。