どこへも行かない怠慢なわたし。展覧会の券があると誘われても、なかなか「うん」と応えられない。
だけど、デュシャンばかりは会場で作品そのものと対面したかったなぁと、思う。
細部や構造が見えてこないから、凝視しようにも術がない。
デュシャンの作品について写真からはもうこれ以上見えない。今日はやめよう、今日は止めようと思いながら未練がましく画集を見ている。
因果応報…何事にも積極性に欠けるわたしに与えられた罰。(こんなに好きなのに)
もう少し全体像を明確に見たかったなぁと思う。
あらゆる身体機能が劣化している今になってボヤクわたし、遅れているにも程があるあるかもしれない。
『階段を降りる裸体No2』
裸体名付けられているから裸体なのかと思う図であり、降りる→連続性によって落下をイメージさせている。
肉体を感じない裸体と称するものは、猥褻の片鱗すら浮上しない。
階段は室内にあリ、その中の裸体は非文明でもなく、犯罪にも遠い。
このどこか無機的な情感を排除した作品の意図は何だろう。
「階段を降りる裸体」を、言葉だけで想起した場合、上る場合に比べたら、少なくとも《こちら》へ向かって来る方向性を感じる。しかし画は、それすら横向きであり、反れている。
作品の題名は画の中の光景に一致を見ない。鑑賞者の知覚が題名と画を無理にも結び付けようとするが、迷走を余儀なくされるだけの徒労に終始してしまう。
頭・腰・足などの部位を、裸体と呼ばれるものに当てはめ、それが下方に連続しているため、《階段を降りる裸体》であることを納得する。
しかし、そのことから喚起されるべき意味はあるだろうか。あたかも散乱した板状の物を寄せ集めたような裸体である。物理的にも精神的にも条件を外した無為。
描かれている(存在している)が、魅せるべき意味が欠落している。
「階段を降りる裸体」は、裸体の意味を剥奪しており、性的興奮はもとより骨肉/血という人間の条件をことごとく打ち消している。
現存の否定は、鑑賞者を寄せ付けない。作品と鑑賞者に生じる溝/亀裂の空間こそが作品の主眼かもしれない。
(写真は『マルセルデュシャン』㈱美術出版社より)
そこから一羽の鶴がふらふらと落ちてきてまた走り出したインデアンの大きくひろげた両手に落ちこみました。
☆逸(かくした)話は、較べて絡(つながる)記であり、双(二つ)を推しはかる。
他意の霊(死者の魂)の趣(考え)に絡(むすびつける)。
バルナバスの話では、アマーリアは、三年前に窓を力まかせにしめたときの興奮のためにいまでもときどき身ぶるいしていることがあるそうです。これは、嘘ではありません。
☆バルナバスの話ではアマーリアは、三年前に〔天〕食(死の入口)を打ち付けてしまった。その衝動のために往々にして戦慄を覚えるそうです。これは本当のことであり、彼女に尋ねなくてもいいのです。