先日、サークルの帰り道、美容室のウインドーにパッチワークを施した人形(犬?)があるのを眺めていたら、お店の人が出ていらして「中にはもっとたくさんの作品があるのでよかったら是非に」と言われ、三人で見せていただいた。
《感激!》
布の風合い、色合わせ、形の妙、針仕事の素晴らしさは余りある。
「すてきですね」「ああ、こんなに素敵って!!」もう言葉を失うほど。
横須賀美容室の斉藤玲子さん、「まだ二階には沢山ありますし、若松会館での展覧会にはこの倍ほどの作品がありましたの」という。
下手ながら手仕事の大好きなわたし、断捨離で布地を一掃しようと覚悟していたのに(やっぱり)捨てられない。
めまいを感じるほどキラ星のごとく並んだ作品群にため息、熱いものがこみ上げてくる。
ああ・・・。
お客でもないのに丁寧に説明してくださった美容師であるパッチワークの先生、ありがとうございました。
布への限りない愛着と憧憬、身体中が痺れるような感動でした。
『幾何学の精神』
乳児の顔をした女性が、女性の顔をした乳児として乳児の顔の女性に抱きかかえられている。
母と子の像であるが、頭部がその大きさとともに変化し、入れ替わっている。
これを以って『幾何学の精神』とした所以はどこにあるのだろう。幾何学とは点・線・面など図形における定理の発見と証明だというくらいの認識しかない。
しかし、ここで思い出すのは、位相幾何学という連続変形の思考で、この作品の意図はこの領域にあるのかもしれない。メビウスの輪などは一方向をたどると表裏を通ってやがて元の点にもどるという空間的な関連を示している。
つまり、その連続性を言っている。断絶なくして縷々連鎖する生命体の不思議。
母から子…この連鎖を裏からたどる、逆も真である証明。
生命体の連鎖にこのような不条理は存在しないが、《精神という領域なら》とマグリットは考える。
子供(乳児)であるわたくしが、母を抱くという幻想。これは相を違えた位相幾何学に通じる概念ではないか。しかし、数学の概念は精神の直観(不条理)を証明することはない。
(写真は『マグリット』西村書店刊より)
ジョバンニの眼はまた泪でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったやうにぼんやり白く見えるだけでした。
☆現れる類(たぐい)を展(広げると)、千(たくさん)縁(つながる)業(善悪の行い)の魄(たましい)が現れる。
ですから、あなたがおっしゃるように、根本的に違ったケースですが、それでもやはり似たけーすでもあるんですわ」
「いや、似ていませんね」と、Kは、片意地に首をふった。
☆「ですから、基本的にまったく異なった死ですが、似てもいるんです」
「いえ、似ていません」Kは立腹し、首をふった。
フリーダのことは傍らにおきましょう。