早朝、電話のベルの音、
「清一朗が風邪をひいたので行ってもいい?」
サークルを断念しても孫の到来は嬉しい。
「おたふく風邪でないことだけ確認してくれれば」と言い残し息子はさっさと出社。
最初はかったるそうにしていた孫も昼過ぎからは元気を取り戻し、絵を描き出した。スカイツリーを描きながら
「ここまでは350㍍、ここは450㍍、それで最後は634㍍なんだよ」なんて言いながら描いている。
「行きたいなぁ」と言うので「まだ行ったことないの?」と聞くと「あるけどもう一回行きたいの」という。スカイツリーは憧れの場所らしい。
風邪のため外遊びはできないので、わたしの熱中するビーズを拡げると、がぜんやる気を出し、ぼくも作るというので、ほっといたら見事完成。(わたしは小学一年生と同じレベルだったのかと悄然)
「すごく楽しかったよ」と、超ご機嫌。
おたふく風邪でないことを、いまざわ先生に診てもらった旨を伝えると、学校を休ませたくないからと、さっさと帰ってしまった。
あーぁあ・・・。
『自転車の車輪』
台座の上に自転車から取り外した車輪一つが倒立している。ある意味奇跡的な光景であり、通常ならばこのような形で安定する設置は望めない。
奇跡の環である。
車輪は地上を回転していくものであるが、象徴のように置かれたこの作品の鑑賞者は、倒壊を恐れてこわごわ周囲を及び腰で見るのではないか。自転車の車輪という、それだけでは役に立つこともない廃物に恐れをなす光景というのも洒落ている。
廃物が一つの神秘に変貌したのである。
ここには天然自然の論理の集約があり、環の概念には宇宙や微細な原子に至るまでの基本的な構造原理がある。
デュシャンはこの作品を前に『始まりであり、終わりである』とでも呟いたのではないか。
廃物が恐れおおくも神秘の情景を醸し出し、世界のあり様を伝えている。小さな光景が大きな世界を包み込んでいる、危機を孕みこみながら怪しくも平然と設置させた姿は神々しささえ感じる美しさを秘めている。シンプルにして多くを語りこむこの作品に感服、デュシャンてすごい!!
(写真は『マルセルデュシャン』㈱美術出版社より)
全くもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見てゐるのでした。
☆全(すべて)の赦(罪や過ちを許す)自由を告げる。
複(ふたつ)を常に考える。
照(あまねく光がたる=平等)の念(思い)を推しはかる謀(計画)が現れる。
それに、おうひとつ考慮に入れておかなくてはならないのは、お役人と靴屋の娘とのあいだには大きなへだたりがあって、そのあいだにもなんとかして橋をかけなくてはならないという事実です。
☆しかし、考慮しなくてはならないのは、犠牲と塵芥になる死との間には大きな隔たりがあって、そのあいだに何とか連絡を取らなくてはならないということです。