『埃の栽培』
床面に積もった埃・・・栽培とは育てることであり、微塵の集積を栽培することなどはできない。
美的対象から外れるかもしれないが、人が生きる空間において自然に蓄積されていく、いわば計測不能な時間の集積である。
人間が為そうと試みても空中の微塵を自然の形に作ることは不可能である。
したがって、『埃の栽培』は、決して有り得ない光景であり、どんな手を使っても栽培という営為に結びつかない。
しかし人から離れて、自然の循環を主体にすれば、栽培という言い方もできるかもしれない。
自然が織りなす風景とはよく聞く言葉である。自然の驚異、人の力の及ばないスケールの大きな光景、事象、現象を指して目を見張り感嘆する。
ダイナミック、巨大さに目を奪われることはあっても、微塵の集積(埃)に心酔することは少ない。
この差異を静かに指摘している。
埃は人の生活において怠情からくるマイナーなイメージしかなく、排除されるべきものの宿命にある。
埃(厭うべき微塵)という時間の集積を『栽培』と名付けたことで、秘められたエネルギーを提示している。
(写真は『マルセルデュシャン』㈱美術出版社より)
カムパネルラはまださびしさうにひとり口笛を吹き、女の子はまるで絹で包んだ苹果のやうな顔色をしてジョバンニのみる方を見てゐるのでした。
☆考えを適(あてはめ)推しはかる。
叙べる詞(ことば)が兼ねているのは、法(仏の教え)である。
蔽(被われた)化(形、性質を変えて別のものになる)は、信仰(あるいは願い)を兼ねた法(仏の教え)として現れる。
※顔はFace→Faith(信仰)、あるいはガンと読んで、願。
ところで、こうして比較してみますとね、世間から引っこんだ暮らしをしていてすくなくとも浮いた噂など流されたことのないソルティーニが一度くらい机にむかって、もちろん内容はいやらしいものですが、お役人一流の美しい筆跡で恋文を書いたとしても、やはりけしからんことだと言えるでしょうか。
☆さて、ともに比較してみると、生きていることを完全に撤回しているソルティーニは誰も知らないけれど、自由であり、先祖の傷痕など目もくれず、自身は美しく輝き、もちろん、書き物をするなどあり得ないことです。