『泉』
これは陶製の小便器とのこと。
壁に立てかけられ設置すべきものを倒して床に置いている。
泉というのは地下から自然に水が湧き出る所である。
人間の生理としての小便、それを吸い込む所である小便器。全く反対の作用である。
不浄とされる小便器を、美しい光景である泉とするこの作品。
『泉』と名付けられた衝撃は計り知れないものがある。
「なんで、どうして?」という反問。
これこそが、ズバリ現代美術の幕開けだったのかもしれない。天地もひっくり返る大事件である。
正しく積み上げられたデータの集積を一気に崩壊させる強すぎる告発。
常識の全否定は、むしろ世界をありありと見せてくれる仕掛けである。
(制作は1916-17、100年も前の作品に大きなショックを覚え、酔いしれている)
(写真は『マルセルデュシャン』㈱美術出版より)
『プロフィルの自画像』
黒と白、黒い部分が作家の横顔らしい。右上に描かれているものは小さくて見えないが混沌を記したものかもしれない。
シンプルである。
一見すると、白い部分が浮上し、次の瞬間(ああ、黒い部分が横顔なのだと気づく)。
〈黒い背景に色紙の切り抜き〉とある。
その黒い部分と白い部分の分量が巧み(厳密)に図られていて黒・白の点滅が心理的に作用する。《在るかとおもえば無い》という交錯である。
わたくしは存在しているが不在であり、本当のわたくしが見えるか?と、問われているような気がする。
平面(二次元)の作品でありながら、三次元的な回転(点滅)を感じる作品は魅惑を秘めている。
(写真は『マルセル・デュシャン』㈱美術出版社より)
そしてまったくその振子の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のやうに流れて来るのでした。
☆真(まこと)の詞ことば)が隠れ掩(おおわれている)也。
現れる千(たくさん)の律(決まり)を詞(ことば)に留める記である。
消防の専門家だということも、たぶんソルティーニと混同されているのかもしれません。ほんとうは、ソルディーニのほうが専門家で、名前が似ていることをうまく隠れ蓑にしているのでしょう。とくに代表というようなやっかいな役目をソルティーニに押しつけて、自分は安んじて仕事をつづけられるようにね。
☆火のような輝きの武器というのもソルティーニと混同されているのかもしれません。本来、ソルディーニのほうが専門で名前が似ていることを利用しているのでしょう。とくに代表という義務をソルティーニに転嫁し自身は放浪者ではないという弁明をし続けているのです。