みんな元気…それが一番うれしい。
小学校二年生のキヨちゃんは宿題を、4才のハルちゃんは紙芝居を自分が読むといって『いやいやたまご』を無事読了し、2才のケイちゃんは、好奇心旺盛でこちらは質問責め。
少し見ないうちにどんどん成長していく。もう甘ったれて「おばあちゃん、おばあちゃん」などと膝に乗って来ることもなくなるかもしれない。
とりわけ、息子の大きな笑い声を聞くとホッとする。朋子さんもステキなイヤリング。(忙しくてもお洒落でいてくださいね)
こちらはどんどん劣化し果てていくけど、若い人たちや子供たちのすくすく元気な日常を垣間見ると安心。
「どうか、いい日常を!」祈らずにはいられない。
『宝石』
取っ手のついた木箱の上に中年の男の頭部と精悍な鳥の頭部がまるで物のように乗っている。それより下部がこの木箱の中に納まっているとは考えにくいが、とりあえず木箱の長さは不明である。(身体の長さ大きさに合致するか否かは分からず、また鳥との比較においても不明である)
つまり木箱の中は空なのか、人や鳥の下部が収まっているのかは分からないが、生きた人や鳥の頭部だけが木箱の上に唐突に置かれているのは奇妙であり、有り得ない状況である。
背景は淡いブルーのベタであり、時空は特定されていない。
木箱の取っ手を持ち上げたら、当然この二体は転がり落ちると思うし、この箱のなかに連続した下部があるのであれば、この木箱の蓋は空けることは出来ない。
『宝石』というものは、男(人、とりわけ女)にとっては価値があるかもしれないが、鳥にとっては無用の長物、猫に小判である。ここ(木箱)に宝石はあるか?
何か遠くを見つめる男の眼差し、そして鳥の眼差し、双方とも宝石を希求しているとは考えにくい。
ある程度の仕事を成しえた男の風貌と鳥の対峙に見つめ合うという交流は認められず、ただ二体がそこに付かず離れず在るという光景である。
ちなみに木箱(木目)は《死》を象徴するツールとして使われているが、この死の箱に『宝石』があるということかもしれない。
しかし、蓋を開けるということは、生物(人や鳥)の死を意味する。どんなに望んでも手に入れることの叶わない物、その逸品は《死》の扉のなかにある。
鳥は『大家族』の鳩(生命連鎖のルーツの象徴)であり、内なる木箱には触れることさえできない『宝石』がある。
それは他ならぬ《亡母の魂/記憶のぬくもり》ではないか。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
ね床にもぐつてからも、山猫のにやあとした顔や、そのめんだうだといふ裁判のけしきなどを考えて、おそくまでねむりませんでした。
床はショウと読んで、章。
山猫はサン・ビョウと読んで、Sun(太陽)、平。
顔はガンと読んで、願。(face→faith/信仰)
裁判はサイ・ハンと読んで、済・範。
考えてはコウと読んで、講。
☆章(文章)は、太陽の平(平等)という願い(信仰)であり、済(救い)の範(手本)の講(話)である。
おまけに、わたしどもは、世間から軽蔑されていますし、あなたは、世間の人たちの考えに影響されていらっしゃいます。とりわけ婚約者のフリーダを通じてね。
☆わたしたちは時代遅れになっていますし、あなたは一般の意見に影響されています。特にあなたの習慣によってね。