『神々の怒り』
この画面の中に『神々の怒り』があるという。
車は運転手によって走り、馬は騎手により疾走する。この二つの態が、上下に重なるという有り得ない構図である。次の瞬間に予想される事故の悲劇。騎手は車を見ず、また運転手は馬を見ず、双方は前進することのみに集中している。
文明の力は馬力を軽々と超えていくに違いないが、走る車の上で馬を走らせたとしたら、馬は落下を余儀なくされる、即ち《死》であり、車の方も損傷を免れないかもしれない。
神をも恐れない暴挙への突進。神は禍を科したということだろうか。(現時点では留まるなら、それはない)
創造主を始め自然に宿るとされる神々は、信仰の対象としての尊崇、畏怖の念を抱かせるものであり、むしろ世界の在り様として隠れた存在である。
その神々の怒りとは、危険を顧みない傲慢や運転手に運転を任せる横柄への忠告だろうか。
救済のない事態に神々の存在はない。この一寸先の非常事態に神の奇跡は期待できず、期待されないことへの神々の怒りが隠れている。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
その草地のまん中に、せいの低いをかしな形の男が、膝を曲げて手に革鞭をもつて、だまつてこつちをみてゐたのです。
☆総ての字を註(意味を説きあかす)定(きまり)で、継(つないでいく)談(話)である。
質(内容)を極め、趣(ねらい)を書くという便(手段)である。
そして、フリーダは、平気で助手をおれのところへよこした。おまけに、ひとりだけときている。もうひとりは、たぶんフリーダのそばに残っているのだろう。
☆そこにフリーダ(自由)は怖れることなく先祖の助手(脳・知力)を送ってきた。先祖の残りは他のところに留まっているのだろう。