続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)新聞は。

2020-10-21 07:05:17 | 飯島晴子

   新聞は東奥日報猫鳴いて

 新聞は東奥日報・・・でなければならないわけではなく、であっても一向に構わない。と、猫に小判の猫が鳴いている。

 新聞はシン・ブンと読んで、心、紊。
 東奥日報はトウ・オウ・ジツ・ホウと読んで、悼、往、実、崩。
 猫鳴いてはビョウ・メイと読んで、平、命。
☆心紊(みだれる)悼(死の悲しみ)。往(人の死)の実(まこと)、崩(みまかる)平(平等)は命(天の定め)である。

 新聞はシン・モンと読んで、辛、悶。 
 東奥日報はトウ・オウ・ジツ・ホウと読んで、問う、往、実、報。
 猫鳴いてはビョウ・メイと読んで、描、迷。
☆辛さに悶(もだえ苦しみ)問う。
 往(人の死)の実(実情)を報らせる描(言葉で表す)には迷いがある。


R.M『心のまなざし』③

2020-10-21 06:27:03 | 美術ノート

 心のまなざしは、自身の大きさに比してとんでもなく膨らみ異様な高さに達する。なぜなら自由だからで、精神の暴走は誰にも止められない。
 この建屋を心のまなざしと比喩するならば、不変の真実(白い球体)はずっと背後に控えており、自身の眼差しの視野にはない。

 心のまなざしは不変の真理に逆らうというものでなく、その存在に気づくことがない。真理はそれに向き合うという覚悟を抜きにしては見えることはなく、ただ、普遍の真理は動ぜず絶対に存在を明らかにしない。

 心のまなざしの向かうところは《ここであり、そこであり、ずっと遥か向こう》である。眼差しを暗示する建屋の窓は複眼であるが必ずしも窓は開いているとは限らない。眼差しの開閉は自身の心にあり、見ることと注視することには差異がある。感度の高さは図り得ず、受信の感知もまた外部から推しはかれるものではない。

 強制的に矯正され、心のまなざしを画一化される恐怖。いわゆる洗脳における眼差しという例もある。心のまなざしは、遮蔽・混濁・妄想etcあらゆる視点を抱え、物理的視野との競合に順応している。
 心のまなざしの正体を捉えことは難しいが、見えているものが総てではなく、常に過去の情報の集積の上に物(対象・世界)を見ていることは明らかである。

 ゆえに倒壊を余儀なくされそうな建屋は、心のまなざしの構築に等しいかもしれない。

 写真は『マグリット』展・図録より


『注文の多い料理店』59.

2020-10-21 06:06:15 | 宮沢賢治

 中ではふつふつとわらつてまた叫んでゐます。
「いらつしやい、いらつしやい。そんなに泣いては折角のクリームがながれるぢやありませんか。へい、たゞいま。ぢきもつてまゐりますさあ、早くいらつしやい。」
「早くいらつしやい。親方がもうナフキンをかけて、ナイフをもつて、舌なめずりして、お客さま方を待つてゐられます。


☆宙(書き記す)教(神仏のおしえ)を究める説(話)を書く。
 理由は総て葬(死者を葬ること)が真(本当)に封(閉じること)だというのを、絶(拒んで)書く法(神仏の教え)の他意である。


『城』3521。

2020-10-21 05:47:01 | カフカ覚書

これに反して、わたしは、このような仕事は酒倉番のボーイたちにやらせることにしたのです。実際また、こういうことには、ボーイたちのほうがずっと打ってつけでした。こうすれば、お役人たちのお世話をする時間がずっと長くなって、お給仕も早くできました。

☆それに反して、現場不在は完全に地下の酒場(死の入口付近)を示しました。
その方がより有効だったからです。長いあいだ残っていた大勢の人たちを客(死人)として迅速に仕えるようになったからです。