続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)てんと虫。

2020-10-22 07:12:36 | 飯島晴子

   てんと虫発つああだかうだといふうちに

 てんと虫を目にしたが、(ああだ、こうだ)とおしゃべりしているうちに、アレッ、今確かにいたけど居なくなってしまった。一体いつ?気持ちの隙間(ズレ)、図れない妙(不思議)な時間を詠んだ。

 てんと虫(天道虫)はテン・トウ・チュウと読んで、展、読、注。
 発つはハツと読んで、撥。
 いふうちに(言内)はゲン・ダイと読んで、現、代。
☆展(広げて)読み、注(一点に集中する)。
 撥(調整して)現れた代(他のものに入れ替える)。

 てんと虫(天道虫)はテン・トウ・チュウと読んで、店、盗、誅。
 発つはハツと読んで、初。
 いふうちに(言内)はゲン・ウチと読んで、厳、打。
☆店で盗んだことの誅(罪を責め咎める)。
 初めて厳(容赦なく)打った。


R.M『弁証法礼讃』

2020-10-22 06:45:04 | 美術ノート

   『弁証法礼讃』

 建屋の窓であるが、実写というよりはベタな描法で現実味に乏しい。換言すると嘘っぽいのである。
 そのうえ窓の扉を開くと、室内には一戸の家がある。窓の中に一軒の家があるはずがない。

《部分としての窓 のなかに 家全体がある》あり得ない構図であり、条理を外している。窓の中に複数の窓のある家がある。
 小が大を含むなど常識では考えられない。

 この景色を正当化する唯一の方法は、物理界を精神界の論法に入れ替えるしかない。物理界で通用しないことも精神界では肯定できるからである。つまり通常抱く観念の否定であり、絵(二次元)に収められた空間はすべて虚偽である、ゆえに描かれた景色は精神の自由な飛躍として十分正当化されうるものである。

 窓あるいは一戸の家に対する観念の破壊を阻止する術はない、これが精神における自由の開口(窓)である。

 写真は『マグリット』展・図録より


『城』3522。

2020-10-22 06:22:43 | カフカ覚書

それでも、どのお客さまともふた言うか三言ぐらいはむだ口をかわすことができました。この点は、フリーダとちがっていました。フリーダときたら、自分のからだはもっぱらクラムのためにあけてあるのだと言わんばかりで、クラム以外の男が声をかけたり、そばへ近よろうとしようものなら、これをクラムにたいする侮辱だと見なすしまつでした。

☆それでもフリーダとはちがって、すこしは言葉を交わしました。フリーダはクラムのために空けてあるのだと話し他のものとの接近は、クラムを傷つけることだと考えたのです。