続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『城』2851。

2017-12-24 06:44:24 | カフカ覚書

きみは、なるほど、フリーダを連れだして、ひどく得意になっている。しかし、きみにたいするあらゆる敬意にもかかわらずーきみは、もうおれに敬意なんかもっていないだろうが、おれのほうは、きみにたいして依然として敬意をいだいているんだー


☆きみはなるほどフリーダ(平和)を連れ出したことをまるで完全に得意になっている。しかし、死にゆく人に敬意をもっているにもかかわらず、きみはわたしに対して少しも敬意を持っていない。


若林奮『「所有・雰囲気・振動ー森のはずれ」のための模型 No. 5』

2017-12-23 07:11:06 | カフカ覚書

 「所有・雰囲気・振動ー森のはずれ」のための模型 no.5

 四方は遮蔽されている、が開かれてもいる。内部には石が置かれている。石は《原始》を象徴しているのかもしれない。(在るべくして在ったもの)
 森のはずれ、森のはずれの内部(森)は不明な領域として心的印象に留まざるを得ないが、惹きこまれる要因のある空間である。何故なら〈外れ〉を認めていること自体に森への関心が展かれて見えるからである。

 森のはずれという境界(へり)に突き当たる眼差しはヒューマン・スケールにおけるある程度の高さの隠ぺいを感じる。抜けるような天空は自分の立ち位置と森の内部にも等しい空間をつなげているはずで、その意味では森のはずれは見えない向こう側の森のはずれに貫通していると考えられる。

 森という自然な樹木(有機)を、金属(無機)に変換させる試みは世界を反転させたような硬直したイメージがある。鋭意な感覚というよりほかない。


(写真は横須賀美術館『若林奮VALLEYS』より)


『どんぐりと山猫』80。

2017-12-23 07:02:29 | 宮沢賢治

 馬車が進むにしたがつて、どんぐりはだんだん光がうすくなつて、ももなく馬車がとまつたときは、あたりまへの茶いろのどんぐりに変わってゐました。


☆真(まこと)を写し、審(正しいかどうかを明らかにする)講(話)は、魔(鬼/死者)の赦(罪を許すこと)を査(調べる)編(文章)である。


『城』2850。

2017-12-23 06:27:28 | カフカ覚書

だから、手続きがやっとはじまったばかりで、おれのほうのコネを通じて話をもちだすことは、まだ全然していない。が、いずれはそうするつもりだ。その結果がきみの不利なようになったら、きみはきみの主人に好意をもたれる準備をあまりしていなかったということになるな。そしてどうやら柳の枝を折ったのも、早まったことだったようだ。


☆要するに最初のやり方でわたしをつないだが、十分には為しえていない。わたしのためにしくじり、不利なのであれば、あなたたち大群に好意をもたれる気は全くなかったのだ。ひょっとしたら、それどころか柳の枝(借金の義務を負いこむ)を折ったのも余計なことだったのかもしれない。


若林奮『「所有・雰囲気・振動ー森のはずれ」のための模型』

2017-12-21 06:51:21 | 美術ノート

 「所有・雰囲気・振動ー森のはずれ」のための模型

 森のはずれ、とは平地に接した境目(へり)のことだろうか。
 自分の立ち位置から森を見たときのその距離間、時空の揺れ。見えないが感じるだけの形態を物量に置換し変換を図るという作業に断定はない。しかし、こうだろうという曖昧な雰囲気を視覚化する、ある意味驚異的な仕事である。
 森のはずれを描き森のはずれの模型を作るのであれば、誰もが納得のいく一致点を見出し肯定する。しかし、森のはずれの形態を消去し残存する見えない時空に目を凝らす試みに、鑑賞者全員が合意を示すことは、むしろ、あり得ない。あくまで個人的感想の域を出ないが感じうる空気に質的変換を図る挑戦なのである。

 作品は森のはずれの閉塞感と未知である森の不明を一体化している。森そのものの不明を隠蔽しているのが森のはずれであると。閉じられた森の不明は眼差しの限界によって閉じられているだけの不明である。


(写真は横須賀美術館『若林奮VALLEYS』より)


『城』2849。

2017-12-21 06:24:42 | カフカ覚書

「ときにはな。しかし、どこから見ても、この場合もそうだということは言えまい。すくなくとも、きみもおれも、文書による決定はまだ受けとっていないからな。


☆しかし、まだわたしから自由になっていない。果たすべき任務を早く見つけることだ、ここにきみの場所はないから。