この画は、自分自身の存在エリアを思考したものかもしれない。
二十六日あたりの月・・・月が間もなく消滅(黒い月)になるn予兆である。すでに消えかかる時間、真昼だが暗く星が見え、月が見えるという不条理。
立ちはだかる山は飛び立つことの出来ない鷲の悲哀を孕んでいる。無窮の空へ、あるいは何かを捉えることを希求しているが、翼をひろげたまま停止している。
手前のブロックの上には鳥の巣、卵が三つ光に照らされている。
鷲の卵だろうか、未来に託す意だろうか。輪廻、循環・・・生命の連鎖を暗示している。
真理と思われる順行、不条理と思われる昼夜の同時性、山(無機)と鷲(有機)の置換、卵に見える生命連鎖の時間(歴史)…順行と逆行の錯綜。
物理の世界でありえないことも精神界では通用することの証明、ここには静かなる強暴が垣間見える。
写真は『マグリット』展・図録より
犬がふうとうなつて戻つてきました。
そしてうしろからは、
「旦那あ、旦那あ、」と叫ぶものがあります。
二人は俄かに元気がついて
「おゝい、おゝい、こゝだぞ、早く来い。」と叫びました。
☆兼ねて霊(死者の魂)の談(話)を納める。談(話)は奈(いかんせん/どのようにもしがたい)。
普く認(見分けること)の芽(兆し)が現れる。
鬼(死者の魂)が総て頼りにするのは教(神仏のおしえ)である。
こうして興奮ずくめの、仕事の多い、だけどやり甲斐のある日々が過ぎていきました。こんなに日のたつのが早くなければよかったのに!せめてもう何日かあればよかったのです!くたくたになるほどがんばっても、四日というのは、すくなすぎますわ。もう一日あれば、あるいは十分だったかもしれません。でも四日ではすくなすぎました。
☆迅速に迫害することはできませんでした。それにもかかわらず、死はたいへん少なかったのです。烈しく消耗していきました。五日あれば足りたかもしれませんが、四日では死には至らなかったのです。
栗咲くと面のすさぶ翁かな
栗の花が咲くと、それを髭に見立てて遊ぶ翁(ご老人)がいらっしゃる。
栗咲くとはリツ・ショウと読んで、慄、傷。
面のすさぶ翁(面遊翁)はメン・ユウ・オウと読んで、綿、憂、往。
☆慄(恐れおののく)傷(悲しみ)は綿(細く長く続く)。
憂(苦しみ)は、往(その後)までも。
栗咲くとはリツ・ショウと読んで、律、衝。
面のすさぶ翁(面遊翁)はメン・ユウ・オウと読んで、免、幽、追う。
☆律(守るべき戒め)は衝(重要)である。
免れても幽(死者の世界)まで追われる。
『アルンハイムの地所』
鷲が翼を広げたような形の山、頭上には南中の二十六日の月、手前にブロックには卵が三つ。
この関係、二十六日の月が南中する時刻は昼である。真昼に星は見えない。
この時空は明らかに架空であることが前提である。存在し得ない場所を『アルンハイムの地所』と命名している。
不動の山を可動(飛行)の鳥になぞらえている。山が飛ぶ、飛行物体である鷲を不動の山に置換させ、草木の皆無な高い山にブロック(人工物)を造り、その上に鳥の卵が入った巣を置いている。
光は山の方からであるが、二十六日の月に陰影をつけるほどの明るさはない。
それぞれは確かに在るかもしれない可能性をもつが、それぞれが一体になる光景は物理的には存在しない。
精神的な試みであり組み合わせであるこの絵を『アルンハイムの地所』と名付けた理由はどこにあるのだろう。
矛盾、不条理、空想・・・《これらがわたくし(マグリット)のエリア(世界)である》との宣言ではないか。
写真は『マグリット』展・図録より
見ると、上着や靴や財布やネクタイピンは、あつちの枝にぶらさがったり、こつちの根もとにちらばつたりしてゐます。風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。
☆兼ねた章が惹きつける化(教え導くこと)の済(救い)がある。
二つの議(はかりごと)が混じるのを普く推しはかる。
総て黙っている。
目(標題・ねらい)は冥(死後の世界)である。
こういうわけで、みなさんが先を争ってわたしの巻毛に手をおふれになるので、一日に十回も髪の乱れをなおさなくてはならないほどでした。わたしの巻毛と髪の編み目との魅力には、どなたも抵抗できないのです。いつもはうっかり者のあなたでさえも、そうでしたわね。
☆総て無雑作にペーピがおびき寄せて連れて行くのです。一日も流れるように更新され、減っていくのです。罠でおびき寄せますが、抵抗できるものは一人もおりません。先祖の傷痕による迫害を騒がすなど、感謝するわけがありません。仕事(現場不在)は完全に成り立ったのです。
わが土鳩鳴く七月の火星かな
七月といえば日永、火星の見える時刻はまさに夜である。そんな時刻に鳩が鳴いている。巣作りの予兆だろうか・・・。
わが土鳩鳴く(我土鳩鳴)はガ・ド・キュウ・メイと読んで、牙、怒、泣、冥。
七月はシツ・ガツと読んで、悉、合。
火星はカ・セイと読んで、和、正。
☆牙(きばをむく)怒(いかり)で泣くのは冥(おろか)である。
悉(すべて)合わせて和(争いを治めるのは)正(道徳的に正しいこと)である。
わが土鳩鳴く(我土鳩鳴)はガ・ト・キュウ・メイと読んで、我、図、求、命。
七月はシツ・ガツと読んで、質、合。
火星はカ・ショウと読んで、加、章。
☆我(わたくし)は図りごとを求めている。
命(巡り合わせ)の質(内容)を合わせ加える章(文章)がある。
窓とは何だったろう。
空間の仕切り(内・外)であると同時に他の世界への開口である。それは内側からも外側からも言えるが、視点の位置によって見え方に差異が出る。つまり室内は閉じた空間であるが、窓外は無限である。
窓の中は室内と呼ばれ、空間に広がり(伸縮)はない。ゆえに、その中に一戸の建屋があるという景色は非現実的である。(ミニチュアなどという考えは論外)
物理的な想定は不可能であるという決定が、この作品に問題を与えている。
物理的判断は観念に等しい。だから、作品は観念の崩壊(否定)を計っていると考えられる。しかし、一方、観念は自由の余白(肯定)を孕んでいる。
窓の中には心理(精神界)の夢想がある。非現実は常に現実を孕み、その素材なくして目に見える景色として立ち現れることはない。
矛盾の光景として見える『弁証法礼讃』は、矛盾の肯定である。
写真は『マグリット』展・図録より
その扉の向ふのまつくらやみのなかで、
「にやあお。くわあ。ごろごろ。」といふ声がして、それからがさがさ鳴りました。
室はけむりのやうに消え、二人は寒さにぶるぶるふる経て、草の中に立つてゐました。
☆秘(人に見せないように隠した)講(話)を省(注意して見ること)である。
冥(死後の世界)の質(内容)を昌(あきらかにする)。
普く認(見分けて)換(入れ替える)。
双(二つ)を注(書き記す)律がある。