ペーパー・写・楽

ペーパークラフト、京都の写真、カブ、自転車、軽自動車で楽しんでいます。

カブでとことこ 六道珍皇寺界隈へ

2008-08-18 19:18:36 | カブでとことこ
京都市内の地図を眺めていると、まだまだ歩いていない所がいっぱいある。
人が多すぎて歩きたくない場所もあるが、興味が湧く名前の所もある。
六道珍皇寺という何が珍しい寺なのか行ってみた。


六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)は、京都市東山区に
ある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は大椿山。本尊は薬師如来。8月7-10日の六道詣り、
小野篁(おのの たかむら)が冥界に通ったと伝わる井戸で知られる。通称六道さん。



小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫
篁の身長は六尺二寸。すなわち180センチを超える巨漢であった。
平安時代の平均身長でいえばジャイアント馬場だったと思う。
百人一首でも有名。

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟

珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。
小窓から覗ける。たしかに大きな人だ。



迎え鐘があるが、壁に囲まれていて見えない。壁に穴があいていて、そこから
綱を引いて鳴らす。壁に囲まれた音を聞いてみたい。



篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。
奥のほうに井戸が見える。
この話を知ってから、夜に井戸を見るとサダコがでてきそう。きゃー。



平安時代の中期頃まで、この辺りは都から外れた辺鄙な所で、鳥辺野と呼ばれる葬送の地。
したがって、現世から六道が存在する来世へ行く過程での通過地点と考えられ、「六道の辻」
なる名称が付いたのだそうです。



「子育地蔵尊」の提灯が吊られ多くの石像が所狭しと祀られている。



名前のこわい幽霊子育飴をネット調べてみた。
江戸時代、一人の身重の女性が亡くなった。土葬から数日たった頃、土のなかから聞こえてきたのは赤ん坊の泣き声。不思議に思い掘り返してみれば、女性の隣には産まれたての赤ん坊が。「そういえば」と出てきたのが、数日前から、夜な夜な飴を買いに来る女性の話。だが、その女性は、赤ん坊が掘り出されたあとにはとんと姿を見せなくなった。どうやら、生んだ赤ん坊を育てるため、幽霊となって飴を買いに来ていたらしい…。
そしてこの飴はいつしか「幽霊子育飴」と呼ばれるようになり、現在に至っている。

あちゃー。おとろしかー。
だが、母の愛に通じるとして語り告がれたみたい。

他のサイトには飴の味はカンロ飴に似ていておいしいらしい。
となりにいた観光客は、店が閉まっていて残念がっていた。
どんな飴か見てみたかった。





六波羅蜜寺は西国第17番の観音札所.空也上人が創建した寺。
 当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)

鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれたのもこの付近である。

都七福神の弁天さんはここ。



六波羅蜜寺から建仁寺へ。掃除をする小坊主さんが見えた。
そういえばこの頃、小坊主さんあんまり見ない。職業として人気が無いのだろう。





建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立された。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称す。
日本で最初の禅寺であり、京都五山の第3位に列せられている。

法堂(はっとう) -仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(講堂にあたる)を兼ねている。明和2年(1765年)の建立。また、平成14年(2002年)創建800年を記念して天井に小泉淳作により双龍の絵が描かれた。

近くに「浴室」と書かれた建物もあったが、坊さんが並んで入っている姿を想像すると、
写真を撮る気が失せた。



歌舞練場の方へ歩いてみた。
舞妓さんの形にくりぬいた看板発見。





まったく歌舞伎に興味がないが、建物が立派なので撮ってみた。
歌舞伎の何が面白いのか、いまだに理解できない。
昔の建物とか建造物には興味が湧くが、古い芸能とか郷土芸能には全く興味がない。
ただ券もらっても見るのが苦痛なので行かない。時間の無駄。



そそくさと歌舞練場を後にして、花見小路を歩いてみた。
一力のある四条通りまで一気に行き、ゆっくり戻ることにする。



壁の色がいい。しかし何か昔の遊郭の色みたい。



まあ、こうゆう玄関の雰囲気は好き。





町屋が並ぶ姿はほんと京都らしい。

20年くらい前まで、歌舞練場、花見小路近辺は場外馬券場があるため、がらの悪い
印象があった。うだつの上がらないおやじが新聞と赤ペン持ってうろちょろと
徘徊していた。

だが、JRAになってから良くなったみたい。
今日も、場外馬券場周辺を制服を着て一生懸命掃除をして、地域に溶け込む姿
が見えた。えらい。

KONICA MINOLTA α7D 50mmMACRO F3.5 使用

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする