ペーパー・写・楽

ペーパークラフト、京都の写真、カブ、自転車、軽自動車で楽しんでいます。

カブでとことこ 豊国神社界隈

2008-08-20 21:27:22 | 神社
 京都には読みにくい地名がたくさんある。
太秦=うずまさ、帷子ノ辻=かたびらのつじ、車折神社=くるまざきじんじゃ。
新日吉神宮と書いて”いまひえじんぐう”、地図で調べると京都女子大とかが
ある通称おんな坂の近く。

夏休みなので女子大生、女子高生がおらず、不審者と間違われる可能性が低い
ため行ってみることにした。

カブは豊国神社の前が広いので、そこに停めることにした。
豊国神社界隈をぶらりとして、最後に新日吉神宮へ。


秀吉を祀る豊国神社は、豊臣氏滅亡後、家康に取り壊されてしまったが、現在の
建物は明治13年に再建されたもの。参道の唐門は、伏見城の城門の一つを移築し
たもので国宝。




門は豪華な雰囲気。鯉の透かし彫りとか凝っている。


瓢箪の絵馬に願い事がたくさん書かれている。
芸能人の絵馬が別の額縁に飾ってあったが、一切興味なし。
液晶ハイビジョンで年食った大物俳優は見るに耐えない。
定年制が必要である。


神殿の周りは質素ですがすがしい。




豊国神社の北隣に建つのが方広寺で、秀吉が奈良東大寺の大仏殿を模して建てた
もの。

この大鐘、家康が秀頼と淀君に勧めて再興させた大仏とともに鋳造したものだが、
そこに刻まれた「国家安康君臣豊楽」の銘が「家康の名を2分して国安らかに豊臣
を君として子孫繁栄を楽しむ」意味だと家康を怒らせ大阪冬の陣が起きるきっかけ
となった。

大きな鐘だが文字は小さい。
よくあんな小さな文字に因縁をつけたのかと思うと、家康が益々きらいになった。
自分の好みは独創性の信長。




方広寺の大仏は奈良の大仏より大きいものであったといわれている。
石垣の石はやっぱり大きいのが使われている。
北側は民家の軒先になってしまってる。


豊国神社から国立博物館の道に色とりどりの百日紅。


京都国立博物館 片山東熊設計、1895年竣工、重要文化財
この時代の建物はほんとうにいい。




三十三間堂を素通りして法住寺へ。
法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治期に
御陵と寺が分離され現在にいたる。

寺内の『身代不動明王(みがわりふどうみょうおう)』像は、平安期の作風と
される。
この不動像は寺伝では慈覚大師が造立したといわれ、後白河上皇の信仰も篤かった。
義仲の放火のさいに、上皇の身代わりとなったと伝えられており、現在も毎年
11月15日には不動会(ふどうえ)がいとなまれる。


後白河天皇の御陵。
後白河天皇は平安時代末期の第77代天皇。
『平治物語』によれば「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、「文にあらず、
武にもあらず、能もなく、芸もなし」と同母兄・崇徳上皇に酷評されていたという。

けっこういいかげんな人やったんや。


智積院(ちしゃくいん)。
真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺
(ねごろじ)という。
中の広い境内は自由に散策できる。


ちょっと時期が遅かったが、桔梗がいっぱい咲いていた。




境内は広い。明王殿とか金堂の建物はでかい。
宗教パワーは恐ろしい。気合だー、気合だー で建てたのだと思う。


七条通りの東の突き当たりにある。
今日始めて入ったが、散策にはいい寺だ。すれちがった坊さんも愛想
よく挨拶してくれた。


新日吉神宮(いまひえじんぐう)
後白河上皇の院御所・法住寺殿の鎮守として、永暦元年(1160)、近江日吉社から
勧請されたのがはじまりで、社地を転々とし、明治30年(1897)に現在地に移った。

後鳥羽上皇をはじめ朝廷の崇敬が厚く、5月9日に行われていた小五月会には上皇
の御幸が恒例であった。
境内には洛陽二十五社の一つ飛梅天満宮や、木下藤吉郎(豊臣秀吉)を祀る樹下
(このもと)社などがある。




本殿への石段を登ったところに、赤山禅院と同じように金網に囲まれた猿が両端に
座っている。
この猿は、大神の御使者で、信者の災禍を去るという不思議な働きする。常に御幣
を捧げて悪気を祓い、すべての災厄を退けて、幸福を授ける。

ふーん。いい猿なんだ。


奥のほうに、スダジイという大木がある。ブナ科シイ属の常緑広葉樹。

ここからさらに上の豊国廟まで歩こうかと思ったが、疲れた。
カブを停めてあるとこまで戻ります。

NIKON D70 標準ズーム使用




コメント (2)
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