ペーパー・写・楽

ペーパークラフト、京都の写真、カブ、自転車、軽自動車で楽しんでいます。

ペーパークラフト 1/400 空母 瑞鳳を作る その6 ZUIHO 1/400

2008-08-21 19:04:29 | ペーパークラフト 1/400 空母 瑞鳳
 飛行甲板上に艦橋を持たない空母は、あっさりしているが綺麗である。
特に囮となって敵戦闘機から発見されやすいような迷彩塗装は、潔くカラフル
である。

本来、迷彩塗装は昆虫の擬態のように、発見されにくいカモフラージュが
目的と思う。
この瑞鳳の場合はどっちだったのかは不明である。

擬態とか迷彩を人そのもが使うとロクなことが無い。
泥棒の擬態、おれおれ詐欺の声の擬態、検診員とか装った詐欺師。
この頃平日に家にいる機会が多いので、来たらおちょくってやろうと
楽しみに待っている。


で、今回は続きとして機銃類の作成である。


起倒式補助缶煙突。この形でよいのか色々な資料をみても判らない。


起倒式補助缶煙突を取り付けてみたが、キットの位置ではうまく収まらない。
若干煙突を寝かせ気味で取り付けた。


40口径八九式12.7センチ連装高角砲A1型改2(防煙楯つき)。
右舷に一つだけ搭載される。






40口径八九式12.7センチ連装高角砲A1型。
左舷に2つ、右舷に1つ搭載。




九六式25ミリ3連装機銃(煤煙除楯つき)。
右舷に3つ搭載。




九六式25ミリ25ミリ連装機銃。
前部の両舷に2つづつ搭載。








九六式25ミリ3連装機銃。
計7つ搭載。
茶色塗装のものをどの箇所に付けるのか、わかりづらい。


かなり出来てきた。
が、探照灯、アンテナ、艦載機とまだまだ困難は続く。


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カブでとことこ 豊国神社界隈

2008-08-20 21:27:22 | 神社
 京都には読みにくい地名がたくさんある。
太秦=うずまさ、帷子ノ辻=かたびらのつじ、車折神社=くるまざきじんじゃ。
新日吉神宮と書いて”いまひえじんぐう”、地図で調べると京都女子大とかが
ある通称おんな坂の近く。

夏休みなので女子大生、女子高生がおらず、不審者と間違われる可能性が低い
ため行ってみることにした。

カブは豊国神社の前が広いので、そこに停めることにした。
豊国神社界隈をぶらりとして、最後に新日吉神宮へ。


秀吉を祀る豊国神社は、豊臣氏滅亡後、家康に取り壊されてしまったが、現在の
建物は明治13年に再建されたもの。参道の唐門は、伏見城の城門の一つを移築し
たもので国宝。




門は豪華な雰囲気。鯉の透かし彫りとか凝っている。


瓢箪の絵馬に願い事がたくさん書かれている。
芸能人の絵馬が別の額縁に飾ってあったが、一切興味なし。
液晶ハイビジョンで年食った大物俳優は見るに耐えない。
定年制が必要である。


神殿の周りは質素ですがすがしい。




豊国神社の北隣に建つのが方広寺で、秀吉が奈良東大寺の大仏殿を模して建てた
もの。

この大鐘、家康が秀頼と淀君に勧めて再興させた大仏とともに鋳造したものだが、
そこに刻まれた「国家安康君臣豊楽」の銘が「家康の名を2分して国安らかに豊臣
を君として子孫繁栄を楽しむ」意味だと家康を怒らせ大阪冬の陣が起きるきっかけ
となった。

大きな鐘だが文字は小さい。
よくあんな小さな文字に因縁をつけたのかと思うと、家康が益々きらいになった。
自分の好みは独創性の信長。




方広寺の大仏は奈良の大仏より大きいものであったといわれている。
石垣の石はやっぱり大きいのが使われている。
北側は民家の軒先になってしまってる。


豊国神社から国立博物館の道に色とりどりの百日紅。


京都国立博物館 片山東熊設計、1895年竣工、重要文化財
この時代の建物はほんとうにいい。




三十三間堂を素通りして法住寺へ。
法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治期に
御陵と寺が分離され現在にいたる。

寺内の『身代不動明王(みがわりふどうみょうおう)』像は、平安期の作風と
される。
この不動像は寺伝では慈覚大師が造立したといわれ、後白河上皇の信仰も篤かった。
義仲の放火のさいに、上皇の身代わりとなったと伝えられており、現在も毎年
11月15日には不動会(ふどうえ)がいとなまれる。


後白河天皇の御陵。
後白河天皇は平安時代末期の第77代天皇。
『平治物語』によれば「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、「文にあらず、
武にもあらず、能もなく、芸もなし」と同母兄・崇徳上皇に酷評されていたという。

けっこういいかげんな人やったんや。


智積院(ちしゃくいん)。
真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺
(ねごろじ)という。
中の広い境内は自由に散策できる。


ちょっと時期が遅かったが、桔梗がいっぱい咲いていた。




境内は広い。明王殿とか金堂の建物はでかい。
宗教パワーは恐ろしい。気合だー、気合だー で建てたのだと思う。


七条通りの東の突き当たりにある。
今日始めて入ったが、散策にはいい寺だ。すれちがった坊さんも愛想
よく挨拶してくれた。


新日吉神宮(いまひえじんぐう)
後白河上皇の院御所・法住寺殿の鎮守として、永暦元年(1160)、近江日吉社から
勧請されたのがはじまりで、社地を転々とし、明治30年(1897)に現在地に移った。

後鳥羽上皇をはじめ朝廷の崇敬が厚く、5月9日に行われていた小五月会には上皇
の御幸が恒例であった。
境内には洛陽二十五社の一つ飛梅天満宮や、木下藤吉郎(豊臣秀吉)を祀る樹下
(このもと)社などがある。




本殿への石段を登ったところに、赤山禅院と同じように金網に囲まれた猿が両端に
座っている。
この猿は、大神の御使者で、信者の災禍を去るという不思議な働きする。常に御幣
を捧げて悪気を祓い、すべての災厄を退けて、幸福を授ける。

ふーん。いい猿なんだ。


奥のほうに、スダジイという大木がある。ブナ科シイ属の常緑広葉樹。

ここからさらに上の豊国廟まで歩こうかと思ったが、疲れた。
カブを停めてあるとこまで戻ります。

NIKON D70 標準ズーム使用




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ペーパークラフト 1/400 空母 瑞鳳を作る その5 ZUIHO 1/400

2008-08-19 18:44:51 | ペーパークラフト 1/400 空母 瑞鳳
 空母は左舷と右舷に搭載されているものが、かなり異なっている
のが作ってみてわかった。方向によって二つの顔がある。

大和は上へ上へと作るため、階層毎の面白みがあったが、空母は側面
にへばりつくような感じで広がっていくため、作りながら少し違和感
を感じる。

この瑞鳳は大和に比べあまり悩むことが少なく、結構すいすいと作っ
ていける。
後、機銃類と艦載機の小物をちまちまと作ることになる。


煙突部品の切り抜き。ひげみたいなやつを一番大きな部品に先に付け、
煙突に角度がつくよう後の部品を接着していく。
煙突先端の黒いところは、内側も黒く塗っておくと作業がやりやすい。


12センチ28連装噴進砲の部品を切り抜き。
色々な角度で折れ線を付けるため、かなり時間がかかる。


12センチ28連装噴進砲は昭和19年10月の比島沖海戦で使用された。
一説には戦艦武蔵も探照灯をはずして、装備したという話もある。

この多連装噴進砲は1回打つと次の発射まで2~3分かかるため、発射
時期の選定に苦慮したというしろものであった。


煙突の下向き角度がこれでいいのかよくわからない。
JSCメーカサイトの画像は角度が少なすぎると思う。
空母の煙突の配置と角度は敗戦が決定するまで、試行錯誤が繰り返さ
れたようだ。




右舷前部の表と裏。側面に台座と支柱がごちゃごちゃ。




右舷後部の表と裏。翼のような物のくり抜きも行った。








左舷の表と裏。側板のささえは結構手間がかかる。




上からの眺め。左右非対称なのがわかる。




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カブでとことこ 六道珍皇寺界隈へ

2008-08-18 19:18:36 | カブでとことこ
京都市内の地図を眺めていると、まだまだ歩いていない所がいっぱいある。
人が多すぎて歩きたくない場所もあるが、興味が湧く名前の所もある。
六道珍皇寺という何が珍しい寺なのか行ってみた。


六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)は、京都市東山区に
ある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は大椿山。本尊は薬師如来。8月7-10日の六道詣り、
小野篁(おのの たかむら)が冥界に通ったと伝わる井戸で知られる。通称六道さん。



小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫
篁の身長は六尺二寸。すなわち180センチを超える巨漢であった。
平安時代の平均身長でいえばジャイアント馬場だったと思う。
百人一首でも有名。

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟

珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。
小窓から覗ける。たしかに大きな人だ。



迎え鐘があるが、壁に囲まれていて見えない。壁に穴があいていて、そこから
綱を引いて鳴らす。壁に囲まれた音を聞いてみたい。



篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。
奥のほうに井戸が見える。
この話を知ってから、夜に井戸を見るとサダコがでてきそう。きゃー。



平安時代の中期頃まで、この辺りは都から外れた辺鄙な所で、鳥辺野と呼ばれる葬送の地。
したがって、現世から六道が存在する来世へ行く過程での通過地点と考えられ、「六道の辻」
なる名称が付いたのだそうです。



「子育地蔵尊」の提灯が吊られ多くの石像が所狭しと祀られている。



名前のこわい幽霊子育飴をネット調べてみた。
江戸時代、一人の身重の女性が亡くなった。土葬から数日たった頃、土のなかから聞こえてきたのは赤ん坊の泣き声。不思議に思い掘り返してみれば、女性の隣には産まれたての赤ん坊が。「そういえば」と出てきたのが、数日前から、夜な夜な飴を買いに来る女性の話。だが、その女性は、赤ん坊が掘り出されたあとにはとんと姿を見せなくなった。どうやら、生んだ赤ん坊を育てるため、幽霊となって飴を買いに来ていたらしい…。
そしてこの飴はいつしか「幽霊子育飴」と呼ばれるようになり、現在に至っている。

あちゃー。おとろしかー。
だが、母の愛に通じるとして語り告がれたみたい。

他のサイトには飴の味はカンロ飴に似ていておいしいらしい。
となりにいた観光客は、店が閉まっていて残念がっていた。
どんな飴か見てみたかった。





六波羅蜜寺は西国第17番の観音札所.空也上人が創建した寺。
 当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)

鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれたのもこの付近である。

都七福神の弁天さんはここ。



六波羅蜜寺から建仁寺へ。掃除をする小坊主さんが見えた。
そういえばこの頃、小坊主さんあんまり見ない。職業として人気が無いのだろう。





建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立された。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称す。
日本で最初の禅寺であり、京都五山の第3位に列せられている。

法堂(はっとう) -仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(講堂にあたる)を兼ねている。明和2年(1765年)の建立。また、平成14年(2002年)創建800年を記念して天井に小泉淳作により双龍の絵が描かれた。

近くに「浴室」と書かれた建物もあったが、坊さんが並んで入っている姿を想像すると、
写真を撮る気が失せた。



歌舞練場の方へ歩いてみた。
舞妓さんの形にくりぬいた看板発見。





まったく歌舞伎に興味がないが、建物が立派なので撮ってみた。
歌舞伎の何が面白いのか、いまだに理解できない。
昔の建物とか建造物には興味が湧くが、古い芸能とか郷土芸能には全く興味がない。
ただ券もらっても見るのが苦痛なので行かない。時間の無駄。



そそくさと歌舞練場を後にして、花見小路を歩いてみた。
一力のある四条通りまで一気に行き、ゆっくり戻ることにする。



壁の色がいい。しかし何か昔の遊郭の色みたい。



まあ、こうゆう玄関の雰囲気は好き。





町屋が並ぶ姿はほんと京都らしい。

20年くらい前まで、歌舞練場、花見小路近辺は場外馬券場があるため、がらの悪い
印象があった。うだつの上がらないおやじが新聞と赤ペン持ってうろちょろと
徘徊していた。

だが、JRAになってから良くなったみたい。
今日も、場外馬券場周辺を制服を着て一生懸命掃除をして、地域に溶け込む姿
が見えた。えらい。

KONICA MINOLTA α7D 50mmMACRO F3.5 使用

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京(今日)のとことこ街歩き 五山の送り火消し炭ひろい

2008-08-17 18:28:17 | 京(今日)のとことこ街歩き
 消し炭をひろって玄関などに飾っておくと御利益がある
半紙か懐紙に包んで、軒下につるしておくと魔よけ、厄よけになる。
家に魔よけが必要かというと、自分がいる限りはたぶん寄ってこない
と思う。相手が魔除けのお守り持っているかもしれない。
もし訪ねてきたらこちらから驚かしてやろう。

ということで、五山送り火の一つ、妙法の”法”の山に登ることにした。


松ヶ崎大黒天から登る。北山通りの一本北の道はほとんど車が通らず
歩きやすくなった。


松崎山妙円寺が正式な寺名。日蓮宗のお寺で、本尊の大黒天像は
伝教大師の作と伝えられていて、開運招福の福神。都七福神の
ひとつで、“松ヶ崎の大黒さん”と呼ばれ、親しまれている。


日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから
神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神
として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として
知らる食物・財福を司る神となった。
たっぷりしたお腹は、たぶんメタボ診断でアウト。


ここの門から大文字山が見える。


送り火の台。バーベキューができると不謹慎な考えをしてはいけない。


まだ炭がたくさん残っている。少し袋にいれて持ち帰ります。


法の山から大文字山方面。
しかし、日本の建物はセンスが無い。ヨーロッパの歴史的都市は
行って見たいと感じさせるが、この景色を見ると誰も行って見たいと
思わないだろう。
利権争いばかりやってる、土建屋まかせの結果か?


大阪方面。もう秋の空。


宝ヶ池。今日は空気が乾燥していて、風が心地よい。
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