ハリックの診断即治療&虹彩と、Kenさんの経済学&スケッチ

虹彩には、体質や、現在、過去、未来、のデータが秘められています。虹彩学による虹彩分析を針灸、巨針、食事療法の指針に!

京都文化の魅力:プリンスホテル京都(スケッチ&コメント)

2011-03-15 06:40:44 | スケッチ


京都文化の魅力:プリンスホテル京都

江嵜企画代表・Ken



「京都文化の魅力」と題して、日本画家、森田りえ子さんがパネラーの一人として出演されると聞いて、グランドプリンス京都の会場へ家族と出かけた。

東北大震災の犠牲者に黙とうをささげた後、会場を満席にした500人の参加者は、パネラー4名、永田萌氏(絵本作家)、森田りえ子氏(日本画家)、堀木エリ子氏(和紙作家)、市田ひろみ氏(服飾評論家)のトークを満喫した。

永田氏は、「京都を離れたら私の絵はない。なぜなら京都は自然が豊かで、歴史と文化がある」などと話した。

森田氏は「なぜ京都なのか?京都は楽しいからだ。他にない文化が凝縮されていて、絵のモチーフにこと欠かない」などと話した。

堀木氏は「京都にはアーチストを育ててくれる土台がある。京都には革新と伝統が混在している。そのエネルギーに刺激を受けている」などと話した。

市田氏は「京都のように1000年の歴史と伝統をそのままそっくり伝えている国は他にない。それが京都の強み。京都の文化は日本の文化である。その一つに125代続いている天皇家はすごい」などと話した。

コ―ディネ―ター、田中誠二氏は「京都の芸術家の全国に占める比率が1955年の約4.6%が現在1.4~1.8へ低下している。京都に何が必要なのか」とパネラーに問いかけた。

市田氏は「京都に町屋がなくなってから減り始めた。京都のお母さんがたが当然のごとくやっていたことがなくなった」などと話した。

森田氏は「金沢の小学校ではお花、お茶、書道が必習科目と聞いた。京都の絵描きがパワーダウンしている。大学で教えてもらえない。路頭に迷っている生徒が増えている 」などと話した。

堀木氏は「師匠との関わり、規律、気構えなど精神的なものを身につねばらない。精神的なものが文化の根底にある必要がある。師弟関係が今はお友だち関係になっている。」などと話した。

永田氏は「持続力がなければ文化は衰退する。外に出ていた若い世代も必ず京都へ戻ってくる。京都に帰って来た人の数も教えて欲しい。」などと話した。

市田氏は「叱らなくなった。叱られながら色々な物を身につけて来た」などと話した。

堀木氏は「幼稚園でならったことを思い出すことが大事だ。おはようと挨拶する。ありがとうと深々と頭を下げる。挨拶が出来ること、ありがとうが言えること、それが人間力である。人間力は文化力だ。」などと話した。

森田氏は「一つ付け加えたいことがある。それは京都の食文化である。京都の懐石料理がフランス料理の原点にある。」などと話した。

1時間半のパネルディスカッションをA4一枚に書ききれない。

いつものように会場の様子をスケッチした。さすがに着物姿が多かった。(了)

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北方領土問題:笠谷和比古氏(スケッチ&コメント)

2011-03-15 06:37:39 | スケッチ


北方領土問題:笠谷和比古氏

江嵜企画代表・Ken



「北方領土」問題について、笠谷和比古氏(国際日本文化研究センター教授)の話を、3月12日午後2時半から「楽問塾」セミナールームで、約2時間、興味深く聞くことが出来た。

「北方領土」とは、国後、択捉、歯舞、色丹の4島のことだと、いつの間にか日本人は思うようになった。実はそうではない。歴史考察をすれば、全千島列島が日本の領土であることがはっきりしていると笠谷氏は話をはじめた。

嘉永6(1853)年12月に、長崎で、ロシアと日本は、日本開港と国境確定交渉を開始した。その時の日本側全権は大目付格の筒井政憲と勘定奉行の川路聖謨だった。

川路聖謨は、出石の家老職で、出石騒動に連座したかどで奈良に左遷されていた。急遽、ロシアとの交渉に抜擢された。日露交渉開始直後、安政元年(1854),クリミア戦争が勃発、交渉は中断した。

そのため、川路聖謨は、その年の3月から始まった日米和親条約で活躍することになる。その年の12月、日露和親条約が締結され、千島列島の択捉とウルップの間に国境線が確定、樺太(サハリン)は従来の慣例通り両国民雑居と明記された。

川路聖謨は、「巧妙な弁論でもって知性を閃かせた。しかし、彼を尊敬しないわけにはいかなった」と「日本渡航記」(ゴンチァ-ロフ)に残されていると笠谷氏は紹介した。

明治8年(1875)、樺太・千島交換条約が締結、樺太はロシア領、ウルップ以北の北千島全島が日本の領土となった。ここまではロシアは友好的な隣人だった。力づくで取ったのでない。合意の上で取った。力づくで取った領土は、必ず力づくで取り返されると笠谷氏は力説した。

明治38年(1905)日露戦争後のポーツマス条約で、樺太の北緯50度以南をロシアは日本に割譲した。昭和14年(1939)、第二次世界大戦勃発、昭和16年(1941)、4月、日ソ中立条約(領土保全・不可侵、5ケ年期限)が締結された。

昭和20年、クリミア半島ヤルタ会談でルーズベルト、チャーチル、スターリンで、対ドイツ戦後、ソ連は対日参戦、ソ連に南樺太および千島を割譲することが密約された。

昭和26年(1951)、9月、サンフランシスコ講和条約が開かれ、千島列島放棄を日本政府は認め、ソ連による支配が確定した。昭和31年(1956)10月、日ソ共同宣言で戦争状態の終結、歯舞・色丹二島の日本への返還が決まった。以上が日露交渉の経緯である。

日本政府とロシア使節プチャ―チンによって友好裡に締結された日露和親条約による国境確定の歴史に遡り、ポーツマス条約、ヤルタ秘密協定を検討し、領土問題を原点から考察する必要がある。

戦後日本は経済大国の名のもとに金でなんでも解決しようとし過ぎた。巨額の財政赤字をかかえた今こそ、歴史の原点に帰り、筋論から外交交渉を進めることが重要だと,笠谷氏は、強調され、約2時間の講演を終えた。

東北地方に大地震発生直後にも関わらず、大勢、講演に詰めかけていた。会場の様子をいつものようにスケッチした。(了)

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