山田風太郎記念館:八鹿
江嵜企画代表・Ken
「人間風眼帖、山田風太郎」(編集:山田風太郎記念館、監修:有本倶子)(神戸新聞総合出版センター発行)を読んだ翌日、作家、山田風太郎の生まれ故郷の兵庫県養父市関宮町を家族と尋ねた。
「記念館」最寄駅であるJR山陰線「八鹿駅」は、尼崎駅で特急に乗り換え、約3時間のところにある。1時間1本のバスは出たあとで、駅前に1台とまっていたタクシーで20数分で現地に着いた。
今年の冬は例年になく大雪で、ひな祭り前まではまだ20センチの雪が積っていたとタクシーの運転手が乗るなり話した。鳥取との県境に氷の山という有名なスキー場がある。「八鹿駅」はスキー客には馴染みの駅だと教えてくれた。
「人間風眼帖」を読み始めたらとまらない。山田風太郎の戦争観、人間観に完全に痺れた。氏がどんな所で生まれ、どんな生い立ちだったのか無性に確かめたくなり、半ば衝動的に現地を訪れることになった次第である。
「人間風眼帖」の編者、有本倶子さんが玄関先におられた。入り口近くに用意されたビデオブ―スで氏がなくなる4年前、東京多摩市の風太郎邸の庭で撮られたインタビュー場面をスケッチした。
「人間風眼帖」は戦後30年にわたる氏の日記から著者自身が抜粋、大学ノ―ト丸2冊に書き残していたものを復元、収録したものである。
氏の先祖を遡れば日本三大お家騒動で有名な「仙石騒動」で獄門となった出石藩士、仙石左京にたどり着く。父は開業医、祖父は太田村の村長、代々庄屋の家系。遡れば出石藩士、山田八左衛門にいきつく。思想家、東大総長、加藤弘之氏を出した。
母方の祖父は医師、二代遡れば絵師、小畑稲升に至る。記念館に少年時代に描いたプロ顔負けの絵が展示されている。絵がたまらなく好きだった。指にたこが出来た。血筋は争えないですねと有本さんの説明が続いた。時代が良ければ絵描きになっていたかもしれないと後に述懐しておられる。
山田風太郎は幼くして両親をなくした。その後の人生に少なからず影響を与える。具体的には聞きそびれたが悪業を重ねたという。医者の三男だったが長男、次男は夭折、医者になることを強いられた。受験勉強をしながら15歳から小説を書き始める。作品が次々入賞、同時に東京医科大を卒業した。
25歳の時に「宝石」の第一回懸賞小説に入選、作家活動に専心。以後、忍法シリーズでは爆発的ブームを起こした。
「人間風眼帖」から1~2抜粋する。
「日本人の特性はといわれた場合、その最大にして最も簡明なのは「軽薄」である。それゆえに日本人は重々しい英国人やドイツ人に敬意を抱くのである。しかし、日本人はその軽薄さゆえにこの国を保っている。」(29.3.11)
「外交的、企業的のみならず、日常の商人のインチキも、実は「約束違反」で説明出来る。(中略)約束違反をやっても徹底的に咎めないという「甘え」から来たものである。」(46.11.22)
枚挙に暇なし。風太郎記念館訪問は記憶に残る貴重な一日となった。(了)