キキョウ
江嵜企画代表・Ken
陽明門の手前にある鐘楼の庇に無数の桔梗紋が刻まれている。これは東照宮を設計した天海僧正が実は生き延びた光秀であったことを示す証拠だという俗説があると先日たまたま読んだ「本能寺の変」(明智憲三郎著、プレジデント社)に出ていた。花の形から桔梗紋が生まれた。土岐一族は桔梗紋を紋所にしていた。明智光秀も土岐一族であり桔梗紋を用いた。
同書によれば、家康 と重臣たちを本能寺に呼び寄せ、信長が席を外したすきに光秀の手勢が本能寺を襲う計画を信長は光秀と密室で打ち合わせていた。中国出陣は家康に警戒されないためのカムフラージュだった。家康討ちの計画を光秀は熟慮の末「信長討ち」にすり変えた。
家康は自らの命を守り、徳川氏の滅亡を救ってくれた恩人である光秀への恩義を忘れなかった。光秀の片腕だった斎藤利三の娘・福(後の春日局)を孫の竹千代(後の家光)の乳母に採用し、重用した。家康や福から「本能寺の変」の真実を聞いて育った三代将軍家光は、日光東照宮に家康の思いを込めた、と「本能寺の変」の著者、明智憲三郎氏は書いた。
こちら神戸は2日つづきの通り雨で凌ぎやすくなった。朝5時27分阪神御影発で例の更地へ出かけた。連日の猛暑を凌ぎ、盛りは過ぎたが、桔梗の花が、元気に出迎えてくれた。(了)