画・江嵜 健一郎
日本画家、石本正、生誕100周年回顧展が5月28日まで京都市京セラ美術館で開催されている。5月5日午後3時から日本画家、森田りえ子ギャラリートークがあり楽しみに出かけ会場の様子をスケッチした。同展覧会を見た半券で受講でき、60人ほどがトークを満喫した。
日本画家、川島渉氏が質問、森田りえ子画伯が答える形で進行した。はじめに川島画伯から石本正画伯は1920年生まれ95歳で亡くなった。20歳の時に京都市立絵画専門学校(現京都芸術大学)に入学後に学徒動員で召集されたが無事帰国、大学卒業後学生を指導しながら作画活動を続けた。1969年から20年間、延べ9回、京都芸術大学の教え子はじめ様々なジャンル、年齢の数十人を連れて欧州に旅に出たことなど、石本正画伯の画業、画歴を詳しく紹介した。
「石本正画伯との接点は?」との冒頭川島画伯の問いに森田画伯は「大学で日本画を専攻した。好奇心からだった。教室では放し飼いされた鶏を写生したとき「伊藤若冲を知ってるか?」と教室で突然、石本先生に言われた。心臓がどきどきしていた。実は若冲のことをほとんど知らなかった。それから若冲の絵や本などを見て猛烈に勉強した」と答えた。
「石本ツアーに3回参加した。石本先生は鬼のように写生されていた。中世ヨーロッパの街や寺院を描かれる姿を目にして、石本正先生のような絵描きになりたいと思った。」と森田画伯は答えた。
「思い出に残るエピソードをご紹介ください」と川島先生の問いに「石本先生と親交のあった川端康成が命を絶った3か月前に石本画伯を訪ねている。その時一対の「舞妓裸婦」で「石本観音ができますね」とおっしゃった。」と紹介した。「石本画伯の裸婦の胸の谷間に白い線が入っている。さる日、電車の中で目の前に座った母親が子供に乳を含ませている様子に青白い光(かげの光)を見た。それから裸婦の胸の間を白く塗るようになった」と話した。
エピソードの一つとして「石本画伯が40歳の頃、轟会の第1回展に舞妓のヌードを描いたとき、全国紙に「大いなる失敗」と批判された。森田画伯は「そんなこと書かれたら逆に見たくなりません?大反響となったのです。石本先生としては「描きたいから描いた。悪うかった?、といったお気持ちだったでしょう。」と話した。
「石本先生の絵の中で森田先生がお好きな絵を教えて下さい」との問いに
森田画伯は「1976年、56歳の時の「干潟」です。銀箔に描かれた。女性ふたりが立っている。構図が斬新。中間色の素敵な絵だなとはじめて見たとき思った。もう一枚は1979年、57歳の時の「青衣立像」です。上半身裸の観音像です。」と答えた。
川島画伯は「石本先生のことばで何か印象に残っているものありますか」と聞いた。森田画伯は「哀(いと)しみは逃げて行く」と石本先生はよく言っておられた。それとすごいことは褒章を全て辞退されたことです。」と話してトークを終えた。
トークのあと再度会場を訪れた。話を聞いたあとでもあり石本画伯の絵をかみしめて見ることが出来た。舞妓の絵、裸婦の絵、5頭の馬が駆ける絵が会場を圧倒していた。景色では故郷の浜田市の街並みや京都五条坂の絵が強く印象に残った。70歳になって、けいとうや菊など花の絵を描かれた。「花が女性に見える」という石本画伯の言葉が残っている。裸婦などの多くのデッサンも見ごたえがあった。絵には描いたときの年齢が付記されていた。
私ごとながら、筆者は高島屋友の会で幸運にも森田りえ子先生から日本画の手ほどきを受けた。時に森田りえ子先生は若き日、「石本先生のような絵描きになりたい」と思われた。改めて今回、石本画伯の絵を目にして、森田りえ子先生の描かれた絵と重なり合って見えた。「師に入り師を出る」という言葉がある。森田りえ子先生には健康に留意され、さらなる高みを目指してまっしぐらに進んで欲しいと祈るばかりである。(了)